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5 病院でガクガク
新宿東口のデパートに入っている大きな書店。フロアーが広いので目的の書物を買うにはそこかしこに設けられた配置図を見なくてはならないが、何度も来ていればそれもインプットされるというもの。少女達は迷うことなく今日発売の恋占い特集が載っているティーン誌を取り囲んでいた。
「イタタ」
おさげに黒縁眼鏡の女子高生柴浦あえんはひきつれるような下腹部の痛みにお腹をさすった。
「あえん、大丈夫」
友だちが心配そうに声をかける。
「朝から痛いって言ってなかった?」
「顔色も悪いよ」
ここのところ生理痛も悪化している。薬の効きも悪い。ホルモンのバランスでも悪いのだろう。そうあえんは素人判断していた。
「一過性のものだと思う。っていうか、いつものことだから」
落ち着いて答えた。ふたりの友人はほっとしたようで、
「さすが医者を目指すだけあるね」
「自分で判断できるってオイシイな~」
と返す。
「それより、ラブ運は」
あえんは真剣である。
「めずらしいね、あえんが恋愛運に必至になるなんて」
「好きな人できたの」
だけどあえんは聞いちゃいない。面倒な計算式が必要な占いを必至に見つめている。
「あえん」
「だめだめ、聞こえてない」
友だちはあきれ顔。あえんは学校をズル休みして兄の受験発表の結果をこっそり見に行ってからボーッとすることが多くなった。
「どこの誰なんだろ、あえんの好きな人」
「気になるね」
と、友だちはひとり足りないことに気付く。
「あれ、ひとり足りなくない?」
四人で来たはずなのに三人しかいない。あえんたちは「どこ行ったんだろ」と周囲を見回す。すると遅れて来た一人が鼻から荒い息をふきだしながらこっちに向かってきた。
「そんなモン見てる場合じゃないって!」
目をぎらぎらさせて本を無理矢理閉じさせた。
「なにするの」
あえんらはムッとしたが彼女の頬は蒸気だっている。外との寒暖の差とは考えにくい。
「すごいカッコイイ人見つけたの、いままでの男フッ飛ぶくらい」
いままでの男……なんて言えるのは四人のなかで彼女だけだ。なのであえんらはしらけた目になってしまう。
「貴族様ってカンジ。医学書のところにいるから医大生かも」
彼女の興奮する様をまじまじとみたあえんは「もしかして」と胸が高まった。
「その人、まだいるの?」
あえんが食いついた。
「あえん、どうかした?」
「医学書のとこね、そこにいるのね」
あえんが雑誌を置いてそっちに向かったのであわててほかの三人があとを追った。
(やっぱり!)
涼しげな横顔は遠くからでもわかった。あえんの頭のなかに「運命の」という言葉がロケットのごとく打ち上がる。
あこがれの木越様は棚の上段を眺めていた。眺めて手に取ろうかどうしようか悩んでいる風で、手を出そうとしてひっこめて、それを何度か繰り返している。
「ね、ね、超カッコイイでしょ」
「ほんと、爆裂カッコイイ」
「あたし、ちょっと行ってくる」
あえんは友人らにハッキリ言い、両手両足をピンと伸ばして木越様に接近していった。
「なんで」
「っていうか、あえん知り合いなの」
「まさか、あえんの彼氏じゃないでしょうね」
友人らはあぜんとして勇敢な背中を見送る。
「木越様」
呼ばれて横をむくと目をハートマークにした女子高生が両手を合わせて立っていた。
「誰?」
あえんは漬け物石が頭に落ちるほどの痛さをおぼえた。後から見ている友人の目も気になる。
「柴浦の妹です。山手線で会った」
木越はあえんの顔をじっと見る。あのときと髪型も違うし黒縁の眼鏡なんかかけているから一瞬わからなかった。
「ああ、あえんちゃんだっけ」
「はいっ!」
あえんは身もだえた。素敵な木越様が自分の名を知っていたのだ。
「ちょうどよかった」
木越様が自分だけに視線をむけていた。吸い込まれるものなら吸い込まれてしまいたい。というか吸い込んで欲しい。
「あの本取ってくれないかな」
木越はアゴで上段にある本をさした。
「え?」
あえんは不思議に思う。木越の身長ならひょいと手を伸ばせば楽々ではないのか。
「君に取ってほしいんだ」
「はいっ!」
しかし是が非でもと頼まれてはそんな疑問も吹っ飛んでしまう。あえんはちょっと背伸びをしてその本を取った。
「木越様は内科志望なんですか」
その本を渡してあえんは尋ねる。
「ありがと」
それには答えず木越は笑みを返した。
「顔色悪いですけど、大丈夫ですか」
「オレはいつも白いから。それより君のほうがまっ青だけど貧血?」
あえんは驚いた。今日は朝から下腹部は痛かったけれど生理は終わったばかりだから貧血はないはず。
「そんなに顔色悪いですかあたし…」
「額に汗出てるけど」
あえんは額に手をおいた。しっとりぬれている。
「あれ? なんだろ」
突如ぞわっ、という音が下半身から聞こえてきた。
「寒い……」
そうつぶやいたとたん、あえんは垂直落下するようにお腹を押さえてしゃがみ込んでしまった。
「痛い、痛い、痛い」
後方から友だちが駆けてくる。
「あえん! どうたの」
冷たい汗が額と背中から一斉に流れた。
「痛いイタイイタイ!」
数秒前まで立っていられたのに、腹のなかのなにかをもぎ取られるような痛みはなんなのだろう。
「あえんちゃん」
救急車! と誰かが叫ぶなか、愛しの木越様が背中に手をまわして支えてくれる。
「大丈夫か」
「イタイ……けどしあわせ」
店員が駆けつけてきて、あえんの周囲は人だかりができた。このような光景は当事者としてはとても恥ずかしいのだけれど、愛する人がそばにいてくれるのならこわいものはなにもない。
しかしながら下腹部の痛みは良くなることはなく、それどころか気を失ったほうが楽になるのではないかというレベルにまで達していた。
「あえん! あえん!」
友だちの涙ながらの叫びを聴きながらあえんの意識は徐々に暗闇にむかっていった。
木越から着電があったとき鉄は自宅で英単語のひとつでも覚えようかとしていた。木越優希の着メロは子供が歌う犬のおまわりさんに設定していた。
(また悪事の誘いか)
その後麻柚の一家がクラリス幼稚園への入園を断ったという話を聞いた。断られたというよりはいいけれど、なにか釈然としないものを感じている。あの悪事の目的は麻柚ちゃんをクラリスに入れることではなかったのか。
(今回は荷担しないからな)
しかし、電話に出たら予想外のことを告げられ鉄は椅子からずり落ちた。
あわてて両親に伝えるが、まだ診察中であったため母と鉄で先にK医大病院に向かった。
迷路のような大病院の廊下を看護師に誘導されて行き着いた先は手術中というランプの下で、そこには木越がだるそうに足を投げ出して座っていた。
「木越」
声をかけると木越は軽く手を挙げて姿勢を正した。
「どういうことなんだよ」
「原因はわからない。突然痛いといって倒れたんだから」
偶然とはいえ、そこに木越がいてくれたのは助かった。
「優希君、ありがとうね」
母がハンカチで目を押さえながら礼を言った。
「いえ、たまたま居合わせたものですから」
母はハンカチをあてながらも木越を凝視している。母が木越を最後にみたのは高校の卒業式のときだというからそう顔を合わせていないわけではない。でもまじまじと見つめている。
「なにか」
これには木越がとまどう。
「日増しにお父様に似てくるものだから」
木越は露骨に嫌な顔をした。一緒にされたくないと言わんばかりに。
「ごめんなさい、気に障ったかしら」
母は焦った。
「……いえ、仕方ないですから」
鉄はふてくされる木越をはじめて見た。そんなに似ているとすればたしかに女にモテモテだろうし浮気もし放題(?)母親も買い物に走ったり家を出たりするはずだ。
緊急手術はすぐには終わらない。
「盲腸じゃないのかな」
「お父さんもすぐ来るから」
鉄と母は平行線な会話をした。木越はだるそうに天井をみあげている。
木越には帰っていいぞと言うべきなんじゃないかといまさら鉄が思っていたらどこからかおかしな歌が聞こえてきた。
「しゅ~じゅつは楽ありゃ苦もある~さ~」
お茶の間の視聴者が楽しみにしている時代劇の主題歌の替え歌であることは明白であるが、手術室の前であまりに不謹慎な歌詞ではなかろうか。
「苦労のあとには虹が出る~」
白衣をまとった木越によく似た男がカルテの入ったファイルを人差し指の上に立たせてやってくるのだ。
「葉子さん久しぶり」
人の母親に気軽に声をかける。
「お久しぶりです」
母が会釈する。
隣に座っている木越が舌打ちするほど嫌な顔になった。
「あれ、なんで優希もいるんだ」
「しらじらしいこと言ってんなよ。最初から気付いて近づいてきたくせに」
鉄ははじめて対面する木越父である。
「そっちは、鉄君?」
木越の数十年後を臭わせる木越父に鉄ははじめましてと頭をさげる。
「銅助になにかあったのか」
銅助とは父のことである。点灯したままの手術中のランプ。
「いえ、娘が緊急手術を。優希君に助けてもらったの」
母がわかりやすく伝えた。木越父は息子をチラッとみた。木越は目をそらす。
「そうなんですか」
木越父はカルテらしきファイルを指一本でバランスをとるという妙技をやめて両手に抱えた。すごいバランス感覚だなあと鉄は漠然と思った。
「母さんから連絡は」
さりげなく木越父は息子に尋ねた。首を横に振る木越。
「そんなに恐いのかよ」
木越が目を合わさず放った言葉は父親の胸をきつく突いたようで、誰が見てもたじろいでいた。
「そんなことはないぞ」
「だったらあやまりに行けよ」
「それとこれとは別問題だ」
「くだらない替え歌歌ってんじゃねーよ」
木越父はさらに後退した。たしかにしょうもない歌だと鉄も思ったが今は歌っていないではないか。
「なあ優希、じっくり話し合わないか」
「なにを?」
「そんなことを言うな」
「だったら……」
といいかけ木越父子は鉄らの存在に気付き互いに口をつぐんだ。
「誠一郎」
そこへ息をきらせて父、柴浦銅助が駆けてきた。
「銅助、久しぶり」
「毎日のようにメールよこすくせになにが久しぶりだ」
父は母に状況を尋ねた。木越があえんについてきてくれたことを話す。
「そうか、ありがとうな」
「礼にはおよばん、医者を目指す者なら当然のことをしたまでだ」
父の礼にこたえたのは木越父だった。
「おまえに言ったんじゃない」
と柴浦父。
「つれないこと言うなよ」
木越父が悲しそうな顔をする。
「帰る」
そんな父親にあきれた木越が腰を浮かせたとき、手術中のランプが消えた。
扉が開き、麻酔が効いているあえんが病室に運ばれていく。執刀医がもう大丈夫ですと言った。
あえんは卵管捻転をおこしていた。
だからあれほど婦人科へ行けと言ったのに。と父は言うが多感な年頃の女の子が生理痛がひどいからとはいえなかなか行こうという気にはならないだろう。
執刀した医師によるとあえんは子宮内膜症を発症しており、多臓器への癒着も認められた。左の卵巣がかなり腫れあがって重みにより卵管がねじれたのだ。
左の卵管と卵巣は切除された。右が残っているので妊娠はできますよと医者は言うが、それでも多感な年頃のあえんには立ち上がれなくくらいのショックを与えた。
「母さん以外見舞いに来るなって、泣いてばかりいるんだ」
木越にその後どうしたかと聞かれたので、大きな溜息とともにそう答えた。
「じゃあ、柴浦は面会に行ってないんだ」
相変わらずソファーにふんぞりかえっている木越は天井をあおぎつつ聞いてくる。
「仕方ないだろ本人が来るなって言ってんだし。それに婦人科の病棟って入りずらいじゃん」
「まあそうだよな」
と木越はうなずく。
「あのあえんが泣いてばかりいるってのが想像できなくてさ、力になってやりたんだけど。こういうとき自分の無力さを感じるよ」
「問題が解けないときとどっちが無力感じる?」
鉄はなにも言えなくなった。目の前の問題さえ上手いこといかない。
「木越は、親父さんはとは家で会話しないのか」
話を変えてみた。あのときはじめて会った木越の父。バランス感覚の素晴らしさと鉄の父を親友と思っていることと木越に似ているということ。そして息子に避けられていること。変な歌を歌うことが印象に残った。
「仕事か女かで滅多に帰ってこないからな。帰ってきても夜中だし顔なんて合わせないよ。もう慣れたけど」
「じゃあ、お母さんとは」
鉄と目を合わせないように首を振るので鉄もそれ以上突っ込めない。
とはいえ勉強にも集中ができない。
「とてもじゃないけど勉強って気分になれない」
鉄はペンを投げた。赤柴犬のクロが鼻の頭を舐めている。
「悪魔の使いを前にして言うのもなんだけどさ、やめないか、オテフセ団」
木越は動かない。ソファーの上で深海生物のようにぐったりしている。
「だるい」
と言う。
「おい、ごまかしてんのか」
「やめれないよ。止められないんだから」
しばらく静寂が続いた。
「おい木越、おれまじでやめたほうがいいと思ってんだぜ。ネットの論争見ただろ、あんな言い争い不愉快だよ」
クラリス幼稚園でPTAが言い争っていたのなんか可愛い方だ。
偽オテフセ団を名乗る書き込みが現れた。それだけならまだいいが、実際にも犬の着ぐるみを着て路上喫煙者に暴行をはたらく集団まで現れてついに警察沙汰になっている。
木越の悪事が犯罪を呼んでいるのだ。
「今のうちなら存在がはっきりしないままフェードアウトしていくと思うんだ。だから、もう悪事はやめ……」
熱弁の末鉄はぐったりした。木越は寝息をたてていたのだ。
「まじかよ」
いつから寝てたんだコイツ。
顔色が悪い。チワワ男ではないがふるふる震えているようにもみえた。
「おい木越」
鉄はゆすってみた。
しかし木越はゲル状になったかのよう。
「大丈夫か」
あまりにゆするものだから木越もうっすら目をあけた。
「襲う気か、気持ち悪いな」
「馬鹿か、お前おかしいぞ」
「ちょっとだるいだけだ。寝かせてくれ」
といったきりまた寝られてしまった。
「まじかよ」
フルマラソンでもしたかのようなぐったりようだ。鉄は仕方ねーなとなんかかけるものはないかと周囲を見回す。部屋の隅にひざかけの大きいのを発見した。泥のように眠る木越にかけてやる。
「困ったな」
(木越の親父さんにオテフセ団のこと相談したほうがいいのかな)
眠り王子の顔をながめ、かなりひょうきんだった木越父を思い出す。
(でも信じないだろうな)
お宅の息子さん悪魔に魂売って悪事を働いてますよ。
「ははは」
笑うしかない。そこでハタと思いついた。
(悪事を働くぶんだけ弱っていくんじゃないだろうな)
この疲労ぶりは普通じゃない。まるで魂をぬかれているような。
(これ以上オテフセ団を動かしたら木越の命は……まさか、そんな馬鹿なこと)
でも木越は悪魔に魂を売ったのだ。それがどういうことかといわれれば、こういうことではないのか。
(やはり親父さんに話すべきじゃないか)
さらにハタと思う。
(そもそも木越が悪魔に魂を売った理由は両親の問題が関わっているじゃないか)
互いによくないクセがあって仲が悪いことは確認済みだ。母親は家を出て行っている。そうなると話せるのは父親しかいない。
(木越のためだ)
鉄は心を決めた。
翌日、鉄はK医大付属病院に勤務する木越誠一郎に面会を申し込んだ。時間仕事と女に追われる人物だから面会などあっさり断られるかと思っていたのだが、意外にもほかの予定をキャンセルしてまで会ってくれるということになった。
(よかった)
木越が憎むほど木越父は家庭を邪険にはしていないのではないか。
昼過ぎ、鉄はK医大病院に赴くことになった。
「おれ、でかけるから。帰りは少し遅くなると思う」
両親には木越父に会うとは言えない。詮索されたらオテフセ団の秘密がばれる可能性があるからだ。
「K医大病院の近くまで行く?」
母の問いに鉄は反射的にうなずいていた。
「じゃあ、悪いんだけどあえんのところにこれを持っていってくれないかしら。今日はお父さんの先輩が診察にみえるから出れないのよ」
母はあえんの友だちからの手紙とお見舞いのぬいぐるみを預かっていたらしい。友だちすら来て欲しくないと泣いているのに自分が行っていいものなのか。
「おれが行ったらあえんが怒るだろ」
母は首を振った。
「これを置いてくるだけでいいから。それに、本当は心細いのよ」
「そんなもんかな」
「当たり前じゃない」
鉄は手紙を受け取った。
柴浦あえんは真っ白な病室で点々と落ちる点滴をぼーっと眺めていた。テレビや雑誌を観る気力もなく、点滴が落ちる様をただ見ていることが時間経過を感じる唯一の手段であった。
ときたま鼻がムズムズとしてくる。クシャミなんかしたらいけない、と思うが止められるようなものではなく。
「クシュ……イターッ!」
ちょっとしたクシャミでも傷が猛烈に痛む。
「イタタタタッ」
こんなことになるのなら、お父さんの言うとおり婦人科に行くのだった。と思うのはあとの祭り。花もはじらう女子高生が妊娠でもあるまいし婦人科なんて恥ずかしくて行けなかった。
医師は病状と手術の内容をこと細かく説明してくれた。
(卵巣片方なくしちゃった)
実感はわかないのだが傷口ははっきりと痛い。何度も子供が産めない体になったんですかと聞いて、その都度医者は片方残っているから心配しないでと言ってくれた。あまりにしつこく聞いたから呆れられたんじゃないだろうか。
(でも、100%が%になったんだよね)
あえんは想像した。木越様と肩寄せ合いながら子供を抱いて微笑み会う様を。
(もうお嫁にいけないんだ)
ぶわっと涙があふれてきた。妄想が流されていく。こういった涙を数時間毎に繰り返していた。
「大丈夫?」
「もうだめ」
涙でにじんだ視界を必至でぬぐおうとするけれど、鼻水まででてきてさらなるパニックに陥る。
「はいテッシュ」
やさしい声がテッシュを数枚抜き取ってくれる。
「あいがひょ(ありがとう)」
涙をぬぐい洟をかむ。お見舞いに来てくれた人が手元までゴミ箱を近づけてくれたので叩きつけるようにまるめたテッシュを捨てた。
「泣くと体力を消耗してしまうよ」
視力がないのも手伝ってとてもぼやけていたが、お見舞いに来てくれた人の輪郭がはっきりしてきた。
「木越様のまぼろしが見える」
「やあ」
点滴の隣にある微笑みは決してまぼろしではなかった。
「木越様!」
と叫んだら傷が痛んでけわしい顔になってしまった。
「様っていうのはやめてくれないかなあ」
花束を抱えて白馬の王子はやってきた。たちまちあえんは真っ赤になった。
「じゃ、じゃあ木越王子」
「普通にさんづけでいいから」
さらに赤くなって体じゅうが活火山になった気持ちになる。
「すごく落ち込んでいるってお兄さんに聞いたからお見舞いに来たんだけど」
冷静さが降りてきた。兄に聞いたから彼はやってきたのか。
「お兄ちゃんに言われて来たんですか」
「あえんちゃんはお兄さんが嫌いなの?」
傷口ではないところがズキンと痛む。
「そんなことないです、よ」
兄の鉄は幼いときからぼけっとしたところがあって要領が悪い。誰かが見張っていないとしゃんとできなくて。自分のほうがよっぽどしっかりしている。なのにだれもが鉄は跡取りだからとちやほやする。自分のほうが勉強の成績いいのに。親類縁者が鉄に100%することはあえんには%もしてくれない。
鉄は二浪しても来年も受験を許された。あえんは浪人を許されず医大以外の滑り止めも受けなさいと言われたのに。
「おじいちゃんだけだった、あたしのこと認めてくれてたの」
サイドテーブルに置いた眼鏡に手を伸ばそうとする。木越が気をきかせて取ってあげた。
「ありがとうございます」
今度こそはっきりと木越の顔が見れてあえんは耳たぶまで赤くなる。
「この眼鏡、おじいちゃんの形見なんです。もちろんレンズは変えたけど。あたしのほうがいい医者になるって言ってくれたのおじいちゃんだけだったから」
「お兄さんもいい医者になると思うよ」
「来年受かればね。っていうか受ける気あるのかも疑問だけど」
「受けるさ。合格するよ」
「そうかしら」
唇を突き出すあえんを木越は面白い顔と笑った。
「患者になるとわかることいろいろあるだろ」
木越の言葉にあえんはうなずいた。
「そのぶんあえんちゃんのほうがリードしたね」
「病気するってことがこんなに心細いなんて思わなかったです」
木越はグレーのコートを脱がないままで丸椅子に座っている。じっとあえんを見つめている。そんなに見つめられてはいいように勘違いしてしまいそうだと焦った。
「でも、こんな病気じゃなくて盲腸ならよかった」
「なんで?」
「だって、子供が……」
子供ができないかもしれないという不安をいまここで好きな人に言うのは間違っていると思いとどまりたかった。だけどまた涙がにじんできた。そこまでオトナになれない自分が嫌になる。
「あたしもう結婚できない」
恋は終わった。高校3年生にして女の人生が終わった。
「あえんちゃん」
「はい」
洟をすする。せっかくお見舞いに来てくれたのにこんな顔して、あたってしまって自分が恥ずかしい。
「本屋で聞かれたことの返事なんだけど」
「本屋で……」
本屋で、倒れる前。
「あたし、なにか聞いたっけ」
すっかり忘れている。
「オレに内科医になるのかって聞いたろ」
上段からとってあげた本のタイトルを思い出す。あれは外科の本ではなかった。内科の特定の病気についての書だった。
「あ、そうだった」
木越は手をさすりながら語りはじめた。
「オレ、外科医にはなれないんだ」
あえんが「なにそれどういう意味」と言ったとたん木越は鉛をブレンドしたような息をついた。
「こちらでお待ちください」
鉄は第一外科の木越教授の部屋に通された。医大にすら手が届かない自分のような者が滅多に入れる部屋ではない。
鉄を案内した若い医師は鉄をジロジロ見つめる。なんで教授の部屋に白衣でないヤツが入れるんだと言わんばかり。
「あの、なにか」
インネンをつけられる覚えはない。
「君は教授のなに」
つっけんどんに男は聞いてきた。
「なにって、息子さんの友人ですが」
おどおどする鉄に若い医師は明かな敵意をみせてきた。
「優希の友だち? あいつに友だちがいたのか、はじめて見たよ」
「木越を知っているんですか」
「従兄弟だよ」
「ああ、なるほど」
しかしこの従兄弟、木越のことをよく思ってはいないようだ。挑戦的な目つきでわかる。
「君も頭脳明晰なのかな。そうだろうな優希の友だちだものな」
なんだろう、この男はいちいちつっかかってくる。
「明晰だなんてとんでもない。木越君の足下にも及びません」
それは本当のこと。
「大学でもかなり優秀という声が聞こえているからな。未来の第一外科をしょって立つなんて言われてる。まだ大学生だってのに」
なんだ、それで嫉妬しているのか。彼の気持ちはわかったが嫉妬が露骨すぎていい感じがしない。
「仕方ないですよ。世の中にはああいうヤツがいるんです」
あきらめ混じりに鉄が言うと、従兄弟君は嬉しそうな顔をした。
「君とは気が合いそうだな」
そう言って退室していったが、鉄は第一外科には行きたくないなと思った。
(その前に合格しなきゃいけないけどさ……こんなんでおれ医者になれるのかな)
本棚には心臓がどうの、医療がどうの、ケアがどうのという分厚いハードカバーが鎮座している。
「おれが読んでもわかるかな」
そんなことを言っているようでは来年受からないと木越の声が聞こえてくるような気がした。
「偉くなるとこんな部屋がもらえるんだな」
応接用のソファは革張りで、灰皿は大理石、真っ白なレースの敷物の上にどかんとのっている。
「ドラマって忠実だ」
昨今の医療ドラマをいろいろ思い返す。ナントカ先生の回診ですとかいって中堅どころやインターンを大勢引き連れて病室をみまわったりもするんだろうなと思う。
「待たせたね。あれ、飲み物出してなかったのか」
難しい本の背表紙を眺めていたら木越父が駆け込んできた。
「座って、コーヒーでいいよね」
と言ってまた部屋を出て行ってしまった。
「あの、おかまいなく」
しばらくして紙コップに入ったコーヒーをふたつ持って戻ってきた。
「砂糖とミルクは」
「いりませんのでほんとにおかまいなく」
鉄はあわてて木越父をなだめる。
「そう、じゃあ座って」
「はい」
「あまり時間がないから、手短にね」
教授のスケジュールは秒刻みらしい。
「あの、こんなこと言うのは、たいへん失礼なんですが」
鉄はふかふかのソファーに尻から吸い込まれるのではないかという感覚を味わった。
やっぱりやめたほうがいいのではないか。信じてもらえないのならまだいいが、息子を侮辱したとか、お前は頭がおかしいとか言われて精神科にまわされでもしたら二度とK医大に足を踏み入れられない。
(でも、このままにしたら木越がしんじまう)
「オテフセ団をご存じですか」
絞り出すように鉄は言った。
いまやオテフセ団のウワサははインターネットだけにとどまらず、テレビや雑誌が特集を組むまでになっている。
ホンモノの特徴はふいに現れてあっという間に去っていく。写真やビデオには写らない。センスのないTシャツに黒いビキニパンツの犬怪人が慈善事業なんだか余計なお世話なんだか意見がまっぷたつにわかれる行為をしていくというもの。
「ああ、若い者や看護師らが話しているのを小耳にはさんだ程度だが」
木越父はコーヒー片手にソファーにふんぞり返る。そういうところは親子だなと思う。
「木越さんは、悪魔の存在を信じますか」
木越父は天井をみつめて眉間を空いた手でマッサージ。
「だから、その、日常生活のやるせなさから悪魔に魂を売って、自分さえよければ家族のことはどうでもいいっていうか」
「柴浦銅助はまっすぐ物言う性格だが、君はずいぶん遠回しな言い方をするね」
父の性格ならあえんが受け継いだんじゃないだろうか。
「葉子さんのそういうところはいじらしくて可愛かったが、男のそういうのは良くないな、女にモテないぞ」
鉄は憤慨した。母との思い出を語ってほしくない。母は父を選んで結婚したのだ。
「そんな顔するなよ。君のお父さんとお母さんをくっつけたのは私なんだよ」
「母をこっぴどく振ったと聞いてますけど」
今度は木越父が憤慨した。誰に聞いたんだそんなウソと言った。
「まあ、それは置いておくとして」
木越父はふんぞり返る。今日の議題は木越優希なのだ。
「柴浦君は、優希のことは、どこまで知ってるの」
「はああ?」
鉄は質問の意味がわからなくてマヌケなくらい口を開けてしまう。
「なんですか、その質問。意味わかんないんですけど」
木越父は鉄の反応をまじまじと見つめる。
「すまない、質問の仕方が悪かったみたいだ」
冗談話ではないのだ。鉄は最初から真面目な話をするつもりなのだから、そんな余裕はない。
「柴浦君」
「はい」
「私は優希が恐くてね」
「……」
なんだ、その切り込み方は。どうリアクションすればよいのだろう。
「家庭内暴力とかですか」
木越父は少し考えて、
「えっと。私と君のお父さんとの出会いの話していい」
なにが言いたいのだ木越父。でも話したそうだからいいですけどと言うしかない。
「小学6年生の2学期ことだ。私は転校生で初日から女の子にモテた」
そうでしょうね、と鉄は思う。
「そのころ柴浦医院は産婦人科で、柴浦はクラスの連中から「お前の親父スケベ」とはやしたてられていたんだ」
鉄が小学生のときは「お前の親父肛門科」だったなと思う。ということは、父も鉄と同じ苦痛の時代を味わっていたのだ。
「それを私が助けてやったんだ。クラスの連中で柴浦産婦人科でお世話になったやつら指さしてさ「お前ら柴浦産婦人科がなかったら生まれてこなかったんだろ」って。みんな青ざめちゃって。それ以来からかいはなくなった」
そこんとこも鉄の場合とおんなじではないか。父子二代でなにやってんだか。
しかし、鉄はハタと思う。
「なんでいじめっ子が柴浦医院で生まれたことわかったんですか」
「お前の親父にも同じこと聞かれたよ」
「で、なんて」
「私は銅助に「実はオレ超能力があるんだ」って言ったんだ。いじめっ子の頭を読んだってな」
鉄はコーヒーを吹きそうになる。オチまで同じとは。
「そうしたら銅助のやつ「スゲーッ! 超カックイー!」って目をきらきらさせちゃってさ、それから私たちは親友ってわけ」
そういうオマケまで同じとは。違うところと言えばそのままふたりが親友にならなかったことだ。
「情報源があったんですよね」
「子供の頃は多感だったからかな。よく聞こえたものだけど。今はかなり集中しないと、ラジオのノイズっぽい」
鉄は首をかしげた。なにを言われているのかわからない。
「あの、なにをおっしゃっているのですか」
「こっちはまだいけるんだけどな」
鉄を無視して木越父は先日披露したひとさし指の先端にカルテをのっけてバランス取りの妙技をした。しかし指先にのっているのはカルテではなく大理石の灰皿だ。
「すげーっ!」
鉄は思わず拍手してしまった。
「ちなみにこんなこともできる」
大理石の灰皿が木越父の手の中で華麗に宙を舞った。なにをしに来たのか忘れてしまう。
「どうやるんですかそれ、よくテレビでもやってますよね」
テレビではマジシャンがステッキを飛ばしているのをよくみた。あれは見えない糸で操っているとウワサされたが本当のところを鉄は知らないでいる。
「リアクションが若い頃の銅助とまったく同じだぞ」
そういわれて鉄は恐縮した。
「これには種も仕掛けもない」
「へ?」
頭が混乱してきた。木越優希の話をしに木越誠一郎を訪ねてきたのになぜマジックを披露されて種も仕掛けもないなどとからかわれなくてはならないのだろう。
「あの、すみません、おれマジで意味がわからないんですけど」
鉄は大真面目で木越父に食らいついていた。
「鉄君、そんなんだから入試に落ちてしまうんだよ。柔軟性を持とうよ」
柔軟性がない。木越父子は似たようなことを言う。
「どう柔軟すればいいんですか」
憤慨の一言だ。
「世の中には科学や一般常識では説明ができない現象があるってことだ」
「だからなんのことですか」
「超能力とか」
木越父と鉄は一息つく必要を感じて仲よくコーヒーをすすった。そして互いに「ははは」とカラ笑いをしあった。
「それじゃあ聞かせてもらおうか。オテフセ団の話を」
身を乗り出す木越父は鉄の言うことをすべて信じるという顔つきになっていた。
話は鉄の二浪が決定したところからでいいのだろうか。
そから分後、病院内の白く長い廊下を手すりにしがみつくように前進する鉄の姿があった。
(なにが悪魔に魂売っただよ木越のヤロウ)
点滴を引きずっている入院患者のほうがしっかり歩いてはいないか。
「ちょっと、あなた大丈夫」
すれ違う看護師に声をかけられること3回目。
「おかまいなく」
といいつつ目の焦点が定まらない。背骨を抜かれた魚のようになっていた。
(そんな話はいそうですかって、簡単に納得できるかよ)
あいた口が閉まらなくなった鉄に木越父は両手を合わせて言った。
「優希と仲良くしてやってくれ」
さんざんあんなことを話しといて、親として無責任も甚だしくはないか。
(おれにどうしろってんだよ)
病院に手すりというものがあってよかった。深く考えるとめまいが酷くなる。
手さぐりで婦人科病棟にたどり着いた。柴浦あえん様と書かれたプレートをみつけてノックする。返事がなかったが聞こえなかっただけかもしれない。
よろけながらも扉をスライドする。2人部屋で手前の人はイヤホンでテレビを観ていた。音をたてないように奥のあえんの元へ進む。
「あえん」
あえんは起きていた。背もたれをあげて。目はうつろだが。
「ああ、お兄ちゃん」
怒られるかと思ったが気の抜けた声をかえされた。
「母さんが来れないっていうから」
「そう」
鉄も魂ここにあらずだったので会話の調和はとれていた。
「大丈夫か」
「たぶん」
「これ、預かってきた」
手紙とぬいぐるみ。テレビの隣に置いた。
「お兄ちゃん」
「なに」
あえんの視線は最初からいろんなところを彷徨っていた。しかし鉄もどこに焦点を結んだらいいのかわからなかったからお互い様だ。
「外寒い?」
「寒いよ」
「早く退院したい」
「1週間ぐらいって先生いってたろ」
「お兄ちゃん」
「なに」
「来年絶対に受かってよ」
「全力は尽くすよ」
「曖昧なこと言わないで。受かるって言って」
「どうしたんだよ、急に」
「あたし肛門科継ぐのやめたから」
「そうなんだ」
鉄はうわの空だったのであえんがなにを言っても頷くような返事しかできなかった。
あえんとの会話を思い出して重責を押しつけられたと悟ったのは家に帰って熱い風呂につかっているときだった。
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