6 木越家でパクパク

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6 木越家でパクパク

『ごめん、おれもうオテフセ団に荷担できない』  というメールを木越に送ったのは1ヶ月ほど前。木越父に拝まれておきながら鉄は戦線を離脱してしまった。 (おれには無理だよ、木越を支えるなんて)  木越からのレスはない。鉄は予備校通いのみで勉学にいそしんだ。 「お兄ちゃん、ちゃんと食べないと脳細胞働かないよ」  異様な食欲を示すあえんは退院してから人が変わった。 「お兄ちゃんは大事な跡取りなんだから。医大受からなきゃだめなんだから」  あれほどこだわっていた木越肛門医院をポーンと兄に譲ると言い出したのだ。じゃあ医大受験やめるのか、と聞いたら「受ける」という。「やっぱりあたし女の子だし肛門科って感じじゃないでしょ。それに長男が継ぐのは当たり前のことじゃない。みんな期待しているんだもの」とまったくイヤミなし。毒がなさすぎて寒気がするくらいだ。  外見も変わった。あれほど大切にしていたおじいちゃんの形見の黒縁眼鏡をやめてコンタクトデビューをかざった。お下げもやめてポニーテールになった。  脳の手術はしてないよな。と思うほどの豹変ぶりだ。 「なあ、あえんはどうしちまったのかな」  あえんがでかけたあと、父は台所で洗い物をする母に聞いた。鉄も気になるので耳をそばだてる。 「いいじゃないの、元気になったんだから」  母はうふふと言う。余計気になる父と兄。 「元気になるのはいいが、その、なんだ。最近帰りも遅いじゃないか」  鉄も一緒にうなずいた。あえんは退院してからというもの週に2~3日「友だちと勉強」と言って帰りが遅い。 「いいじゃない、あえんも高校生なんですから」  母はリズミカルにお皿を洗う。 「なにがいいものか、悪い男にでもひっかかってたらどうするんだ」  父もなんとなく男の影があるのではないかと心配しているのだ。 「父さんってどうして今も木越の親父さんと仲良くできるの」  悪い男=木越というのもよくない連想であるが、これもきっかけのようなものかと思い、鉄は聞いておこうと思い立った。  父は「どういう意味だ」と真面目な顔になって聞き返した。鉄が「木越父に会って話をしたんだ」と言うと、目くばせで「こっちへ来い」と言われたのでついていく。母は皿洗いを続けていた。  開院前の診察室で柴浦父子は医者と患者のように向き合う。 「誠一郎に会って、なにを話したんだ」 「えっと、優希君のために奥さんと仲直りしていただけませんか、とか」  鉄は聞いたことをベラベラと話す気にはなれずお茶を濁すような言い方をした。 「なんでお前がお節介を焼くんだ」 「木越が元気ないから」 「お前は誠一郎の息子とそこまで仲よくしていなかったんじゃないのか」  それはそうだ。ただの同級生という関係だった。 「そうなんだけど、事情がかわって」 「鉄」  父がメスを手にしているような目を向けるので丸椅子ごとひいてしまった。 「誠一郎のこと、どこまで聞いたんだ」  父の尋ね方は木越父に息子のことをどのくらい知っているのかと聞かれたときとおんなじような含みがあった。 「父さんが子供のときいじめられてたの助けた話とか、父さんと母さんの縁結びの神は自分だとか、灰皿が飛んだりとか、男の考えていることがわかるとか」  父はこめかみを押さえた。 「その話、母さんの前ではするなよ」 「母さんは知らないんだ」 「そうだ」  しばらくの沈黙。 「息子にも遺伝しているということだな」  鉄は黙って頷いた。 「それは誠一郎と同じものか?」 「木越の親父さんが言うには、共通している項目は受信しかできないのと女心は読めないことだって。それ以外は息子のほうが凄いみたいだ。っていうか、ありえない」  鉄の父は腕を組んだ。 「そんなに凄いのか」 「幻覚なんだか瞬間移動なんだか念力なんだか。恐いくらいだよ」 「なあ鉄、お前気付かなかったのか。考えていること読まれてたかもって疑問に思ったことなかったのか」  鉄は山手線で再会してから今までの出来事をなぞってみた。 「そういえば、口にだしてなかったのに受け答えされたことがあったような」 「何度かあったはずだぞ。私も誠一郎に「いつ気付くかなと思って」と試されてた時期があった」 「おれ、かなり鈍かったのか」  さらにしばらくの沈黙。  ここまで言っておいて鉄はオテフセ団のことを言えないでいた。そのかわり、 「木越の親父さんは木越に女関係を読まれるのか恐くて家に帰れなくなっただけで奥さんを嫌いになったわけじゃないって」 「でもそこそこ浮気はしているんだろうが」 「そうみたい」  という報告をしつつ、ということは木越の母親は夫と息子の秘密をまったく知らないということになるのかと思った。 「困ったな」 「おれも困ってるんだけど、あえんを病院まで連れてきてくれたお礼もちゃんとしてないのにこんなこと知っちゃって、あいつに会うのがこわくなって」  父は腕を組んでうなった。時計をちらっと見る。開院時間が迫っていた。 「誠一郎には一度会って話をする。お前も優希君とちゃんと会って話せ。真実を知って逃げるのは男のすることじゃない」  鉄は丸イスごとひいた。 「それはわかるんだけどさ、でも」 「いいことを教えてやろう」  父は至って真面目に言う。 「頭のなかで歌を歌うんだ。そうすれば頭のなかを読まれることはない」  手術は楽ありゃ苦もあるさ~。っていう歌のことだろう。 「話しながら歌うなんて無理だよ」 「この手段は続かないと意味がない」  分会話するとしてそのあいだ頭で歌を歌い続けるなんて無理だ。 「無理なら仕方ない」 「え~、そんなこと言わないでよ」 「訓練しろ。お前ならできる」  できるものなら大学も合格している。 「おはようございます」 「おはようございま~す」  そこへ看護師と受付事務員が出勤してきた。柴浦父子はあわてて笑顔の返事を返した。  柴浦肛門医院が開院時間になり、鉄は自室で勉強をはじめた。  しかし頭に入らない。  まったく連絡のなくなった木越のことを思ってというより、頭のなかで長時間歌を歌いながらほかのことをするという訓練をしている自分に気付いたからだ。 (おれって頭わるい)  歌いながら数式が解けないことに鉄は頭をかきむしった。 (木越はどうしたかな)  ネットを見るとオテフセ団モドキは全国そこいらで出没しており、傷害や窃盗で逮捕者もでたようだが鉄が本物だと思える目撃証言はなかった。  クラリス幼稚園をしおにやめたのか。それならそれでいいのだが。 (激しく体力消耗するみたいだし……)  木越が海の軟体生物のようにぐったりしていたのを思い出す。ヨダレまでたれていた。 (ぐわーっ! マジで勉強どころじゃねーよ)  なにもできないまま午後に突入した。 (このまま勉強できなくなったら医大どころかどこの大学にも入れないんじゃなかろうか)  というくらい集中できない。頭をグルグルまわるのはあえんの手術中に木越父が歌っていた「手術は楽ありゃ苦もあるさ~」という時代劇主題歌の替え歌だ。  シャープペンの字がノートのマス目からずれていく。 (苦労のあとには虹がでる、だったか)  鉄はシャープペンを放り投げた。もうダメだ。今日はダメだ。いや明日もダメな気がする。明後日も、1年後も。 (こうしておれ、ダメ人間になっていくのか)  突如子供が犬のお巡りさんを歌い出した。幻聴なのかと耳をおさえようとしたが、携帯が鳴っているのだということに気付く。あまりに焦っていたので着信相手の名も確認せずに「もしもし」と言っていた。 「柴浦」  しかし相手の声は消え入りそうに弱かった。 「助けてくれ」 「え?」 「いますぐ来てくれ」  一方的に切れた。  それから、どういうアクションを自分が起こしたのかまったく覚えていない。我にかえったときには木越家の前でゼイゼイ息を切らして立っていた。  鍵は開いていた。何度も勝手にお邪魔しているので遠慮はいらない。 「木越!」  そのままリビングへ直行した。4月アタマとはいえうすら寒い。床暖房は稼働していた。  いつものように木越はソファーでぐったりしていた。が、決定的に1ヶ月前とは変わっていることがあった。 「お前、どうしたんだよ」  鉄は1ヶ月という空白の恐ろしさに驚愕した。  あまりの変化に声を失う。 「なんだよその顔!」  木越は太っていた。  丸顔の菓子パンヒーローを思わせた。  あんなにシャープだった輪郭がまんじゅうに目鼻口が乗っかっているようになっている。まるでニセモノ木越が押しかけて本物木越をどこかに追いやり、その家の者になりすましているかのようだった。 「気にするな。副作用だから」  と木越は寂しそうに言った。 「なんの(副作用だ)」  と言っておかしなことに気付く。丸いのは顔だけなのだ。手足腹回りに脂身は確認できない。  鉄は冷や汗をかく。 (これも、ありえない能力を使ったがために起こる現象なのか)  発熱、疲労、そしてまんじゅう顔。まるで罰ゲーム、いやしっぺ返しではないか。 (こんなことになるのにオテフセ団を動かすメリットはどこにあるんだよ)  鉄は泣きそうになった。 「まさかと思うけど、その顔で学校行ったりしてるのか」  木越は首をふった。 「そろそろヤバイとは思ってるよ」 (それはオテフセ団のことか。そうだよな、こんな副作用があるならもう二度とあんな能力使うべきじゃないんだよ。やっぱ悪いことをしてただで済むわけがない。悪人は最後にはしかるべき制裁を受けるものなんだ)  鉄は洟をすすっていた。目の前の貴公子だった者が哀れだった。 「嘆いているところ申し訳ないんだがコンロに乗ってる鍋のなかを見てくれよ」  丸顔の木越は丸まったあごで対面式になっているキッチンをさした。 「なんで?」  とんちんかんなことを言われてうろたえてしまう。 「いいから見てくれ」  得体の知れないものを作ったんじゃないだろうな。と警戒しつつキッチンにまわる。黄色い両手鍋がコンロにに乗っていた。  恐る恐るフタをあけた。  鍋いっぱいに茶碗蒸しが張ってあった。 (これはいったい)  そばにお玉があったので表面をつついてみる。弾力がある。しかしその弾力のなかになにか当たるものがあった。  ミルク色の保護色で分かりづらかったがこれはジャガイモだ。思い切ってお玉を差し込んでみる。蚊に刺されたところを爪であとをつけたようになる。思い切ってほじくり返してみた。  底に沈んでいたのは大きさまばらな人参、たまねぎ、ブロッコリー、なかでも鉄が目を見張ったものは、 (手羽先)  鳥の手羽先が入っていたのだ。 (なるほど、これがゼラチン質を大量に放出してシチューらしきものをここまで固めたのか)  クリームシチューに鳥の手羽先を入れたのを鉄ははじめてみさせてもらった。 「食え」 「えっ!」  命令された。食欲をそそられる要素のない料理を食えと命令された。 「火にかければゆるくなる」 「なんで」  食べなければならないのだ。 「助けに来てくれたんだろ」 「不味いのか」  それに木越は無言でこたえた。 「捨てればいいじゃないか」 (オテフセ団の服のセンスが悪いのと料理が下手なのはよく分かった。しかしおれにこれを食べる義務はない) 「それを作ったのはオレじゃない。お前は兄として残さず食べる義務がある」  木越は不機嫌に言った。 「なんだって?」 「それをつくったのはあえんちゃんだ」 「なんで」  なんであえんが木越の家に来て得体の知れない料理を作るのだ。第一あえんが柴浦家の台所に立っているのを鉄は見たことがない。 「今日来るんだよ。それまでにこれが残っていると悲しむだろ。お前が捨てていいというなら捨てるが」  捨てられた手作り料理。そんなものを見たらあえんはかなりのショックを受けるだろう。やつあたりが鉄の身にふりかかる。 (っていうか、なんであえんが木越の家に入り浸るんだよ) 「オレがろくなものを食べていないと知って体にいいものを作ると言ってくれるのはいいんだけど、まさかこれほどのものが出るとは思わなくてさ」 (っていうか、なんであえんが木越の食生活に関わってくるんだよ)  と思いつつ鉄はコンロに火を入れた。妹を思うがゆえの兄心だ。 「あえんちゃんが入院しているとき見舞いに行ったんだ」  あえんをたすけてくれたのは木越だった。 「そうなのか」 「かわいそうだったな、目を真っ赤に腫らして、結婚とか子供のことを気にしてた」  男でいえば片方の玉をとるようなものだ。子供が出来にくいかもしれないということは女性には耐え難い苦痛。 「はげましてあげたんだ」 「ありがとな」  あえんは入院したのを境にキツイことを言わなくなった。それは木越の見舞いのおかげだったのか。 「あえんちゃんと話しているうちに、なんかおかしなことになったみたいだ」  その結果がこれにつながったのか。 「お前、人の妹にこんなことさせるなよ」 「させてなんかいないよ」 「じゃあ、迷惑とでもいうのか」 「いや、気持ちはありがたいんだけど」 「そんな不味いのかこれ」 「不味いというか」 「……」  約分後、ふたつの皿にとろみのついたシチューが並べられた。 「オレも食べるんだ」 「当たり前だ。お前のために作ったんだろ」  木越家に来て鍋を見てから皿出してよそって出すまでぜんぶ鉄がひとりで行った。手羽先の骨だしまでだした。 「いただきます」  鉄ですら妹の手料理など食べたことがなかった。いったい、どんなイリュージョンが秘められているのか。息を飲み、スプーンですくって口に運んだ。 「なんだ、これは」  クリームシチューなのに牛乳の味がしないではないか。 「豆乳100%だそうだ」  木越も観念したようにスープをすする。 「豆乳かよ」 「牛乳より体にいいってあえんちゃんが」  普通のクリームシチューを想像していただけに予想外。  食べれない味ではない。でも、しばらくして鉄は足りないものを求めた。 「塩入れていいか」 「塩分の取りすぎはよくないってあえんちゃんが」 「いや、いや、それより味優先にしようぜ」  鉄はキッチンに戻り、塩とコショウと冷蔵庫から粉チーズを持ち出した。まんべんなく振りかける。 「かなりよくなったぞ。お前もかけろよ」  さすがにこれは味がなさすぎる。木越は塩コショウをかけながら、 「あえんちゃんには味付けしたこと言うなよ」  と言った。  塩とコショウをたしたからといって抜群に美味しくなったというわけでもない。ふたりは義務のように黙々とあえん特製豆乳手羽先クリームシチューを平らげていった。 「これ、なにか隠し味というか、隠し調味料入ってるよな。漢方くさいというか」  なにか薬っぽい風味がした。 「そうだな、なにか漢方入れたんじゃないか」  どこからそんな、と言おうとして柴浦肛門科医院でも漢方薬は出していることを思い出す。 「たまになら、エキサイティングでいいんだけど。週に2~3日来られてこんな感じの料理つくられたらさすがに飽きるというか」  木越が困るのはもっともと思われた。 「おかげで悪事を働くヒマがない」  と言いつつ木越はふんぞり返る。 (あっ!)  そのとき鉄はようやく気付いた。今日は赤柴犬のクロがいない。 (顔がふくらんだせいで幻覚がだせないんだ)  鉄はとっさにそう思った。悪の副作用だ。 (悪の、副作用……)  それをきっかけに鉄のなかで木越父に会ったことや親同士のなれそめや自分らと比較される小学生のときの出会いとかすべてのことが頭にあふれ出してきた。 (おれが木越の親父さんと会っているときに木越があえんの見舞いに……それであえんが木越のために不可解な料理を)  といままでのあらすじを回想したところでさめた目で自分を見ている木越に気付いた。 「え、え、なに、なんだよ」 「……」  顔は丸いが眼光の鋭さは木越のままだ。 「皿、洗おうか」  鉄はあわててふたつの皿を取って立ち上がる。 「心配するな、あえんにはおれからきつく言って聞かせるからさ」  洗い物をしながら、でてきた鼻歌は有名な時代劇の主題歌の替え歌で、   手術は楽ありゃ苦もあるさ   苦労のあとには虹が出る (ハッ!)  対面式カウンターのむこう側で自分をにらみつけている木越がいる。  洗い物の手が止まり、水の流れる音だけが響き渡る。すっかり忘れていた木越の能力。 (よま、よま、読まれてた?)  大量の冷たい汗が背中を伝わった、と同時に木越が大変真面目な目つきで言った。 「柴浦、あえんちゃんはなにも知らないんだから喋るなよ」 (おれって、おれって)  鉄は自らが引き起こす愚かさゆえに果てしのない自己嫌悪に陥った。 「それであんなメールよこしてうちに来なくなったのか」 「申し訳ありません」  鉄は窮鼠であったが目の前の猫を噛むことはできやしない。 「あのクソ親父、余計なことをベラベラ喋りやがって」  木越は怒りの方向を父親に向けた。 「親父さんを責めるなよ」 「じゃあ親父にオテフセ団のことを喋ったお前を責めてやろうか」  鉄はオテフセ団に囲まれる自分を想像した。 「勘弁してください」 「クソッ、こっちも限界かよ」 「こっち?」 (あっちもあるのか?) 「やかましい」  にらまれた。オテフセ団の首領は普通の人間とは違うのだ。悪魔に取り憑かれたのではなく魔人そのものだったのだ。 「木越、親父さんと話し合えよ」 「なにを」 「なにをって、心配してたし」  オテフセ団のこと。自分の息子とはいえそこまでできるとは思ってもいなかったらしい。 「むこうがオレを避けてるんじゃないか」 「それは、そうかもしれないけどさ。仕方ないじゃん」 「そうだよな、お前もオレを避けたんだものな」  胸に無数の矢が刺さる。真実を知ってしまって逃げに走った鉄である。 「柴浦はそうやって受験からも逃げる気か」 「そ、それは」  胸が痛みすぎて発作を起こしそうだ。 「親父の女好きは今にはじまったことじゃない」  木越は勝手にしゃべりはじめた。 「親父の女性遍歴は物心ついたころからわかってるよ。でも母さんには喋っちゃいけないんだろうなということもわかってた。だからオレは告げ口をしたことはない。だけど母さんは出て行った。そういうところに利く嗅覚は女性だけにある特殊能力だと思う」  説得力があるので鉄は頷いた。 「火遊びしても親父は母さんと別れたくないと思っている。だったら母さんと正面切って話し合うべきなんだよ。母さんだって買い物に走るエネルギーをどうして親父にぶつけないで耐えてきたのかさっぱりわからない」 「そうなんだ」  他人にはわからない家族の領域。 「親父が言う恐いというのはさ、オレが母さんに告げ口するんじゃないかというくらい女がいることなんだ」  鉄は少し考えた。 (木越のお母さんは旦那と息子の真実をしらないってことか?) 「まあな、だったら浮気なんかやめろっていう話なのに」 (一度にたくさんの女がいるのは羨ましいけど、そういう問題じゃないよな) 「それでも母さんがいちばんらしい。謝るきっかけがつかめないんだろうな」 (う~ん、モテる男の贅沢な悩みか) 「家に帰らない理由をオレのせいにするな。すべてオレのせいみたいじゃないか。ほったらかしにしてるくせに」  そこで鉄は自分が喋っていないのに会話が成立していることに気がついた。 「ほんとに凄いな」  鉄は声を出して言った。 「なにが」 「オテフセ団が本気だしたら日本くらい征服できるんじゃないか」  それには木越は笑った。 「無理無理、そんな度胸ないよ。いろいろのしかかるしさ」 (のしかかるのは副作用のことなんじゃないのか。日に日に体に異変がおこるのは相当な負担がかかるとしか思えないよ)  計り知れない力を持って生まれたせいでリスクもハンパではない。 「柴浦、それは考えすぎ」  そう考えたことに対して木越が反論しようとした。だが、インターフォンが鳴りつとめて明るい女子高生の声がした。 『こんにちわ。あえんです』  木越はホームセキュリティーのボタンを押した。携帯ほどの画面にあえんの顔が写っている。 「いらっしゃい」  そう言って木越はオートロックになっている玄関をあけた。 「おじゃましまーす」  外はそんなに寒いのか、頬を赤くしたあえんが床暖房のリビングに姿を現した。 「あえん」  しかし目の前に仁王立ちする鉄がいた。食べたくもない料理をたらふく胃袋に詰め込まされた表情は鬼のようであった。 「お兄ちゃん、なんで?」  スーパーの生鮮食品が入った袋をさげたままあえんは驚きを隠せない。 「いたらいけないのか」  頭から角が出る勢いである。 「今日はなにを作る気だったんだ」  あえんは木越をみたが木越は再びソファに腰を埋めて天井を眺めている。 「今日は……お魚が安かったから、中華風に煮てみようかなって」 「袋のなかみせろ」 「いやよ、なんでお兄ちゃんなんかに」 「手羽先の豆乳煮込み漢方薬風味を食べさせられたんだよ」  あえんはあとずさった。  鉄は買い物の中身を改める。  白身魚は切り身の生だら。木綿豆腐、ネギ、にんにく、生姜、エリンギ、チンゲン菜、中華スープの素。一見まともそうにみえた。しかし一番奥にグルコサミン錠というサプリメントをみつけた。 「これはなんだ」  と言ったらあえんは顔をそむけた。 「これは、その、えっと、そうそう! 寒さにいいのよ。木越さん寒がりだから」  木越をみたら苦笑いをうかべていた。 (よく手をさすっていたのは冷え性だからなのか) 「作ってやるのはいいがちゃんと味付けしてくれ、あと、なに入れてるかしらないが漢方薬を混ぜるのやめろよな。味が落ちる」  あえんは露骨にむくれた。 「お兄ちゃんのために作ってんじゃないんですけど」 「それはそうだけどさ……っていうかお前何様のつもりだ? 押しかけ女房か?」  あえんはたちまち頭から湯気をだした。 「やだ、お兄ちゃんなにいってんの、そういうんじゃないわよ、あたしは、助けてもらったお礼してるだけよ」 「助けたって、本屋にはたまたま居合わせただけだろ」 「たまたまってなによ。運命とか気の効いたこと言えないわけ」  あえんは赤くなったまま兄に向かって吠えた。 「なんだそれ」 「モテたことのない人には禁句だったかしら」 「失礼なこというなよ、おれだって彼女くらいいたことあるよ」 「エッ、ウソッ! それ絶対いま思いついたんでしょ」 「なんで思いつきで言わなきゃならないんだよ、予備校で知り合ったんだよ」 「わかった。その子、今年合格して、それでふられたんでしょ」  それこそ禁句だ。 「仲いいな」  木越が割って入って柴浦兄妹はここが自宅ではないことに気がついた。 「いいよな兄弟がいるのって」  あまりに切なそうな目をして言うので鉄もあえんもしゅんとなってしまった。 「ごめんなさい」 「悪い、うるさくて」  木越は「おもしろいからいいけどさ」とつぶやいた。  その日は鉄も料理を手伝わされた。木越はなにもしないで兄妹の様子をながめていた。鉄が「なんか手伝えよ」とぼやいたがそのたびあえんが「いいの」と睨みをきかす。  普通の味付けがなされた料理が完成したが、手羽先の豆乳煮込み漢方薬風味で腹がいっぱいだったので明日温めなおして食べるということになった。  そして柴浦兄妹は木越邸をあとにした。 「おまえ、木越のこと好きなわけ?」 「お兄ちゃんって女の子に嫌われるタイプ」 「答えになってないだろ」 「そんなんだからふられるんだよ」 「そんなんて、どんなんだよ」  しばらく無言になった。  木越は例のことをあえんには言うなと言った。ということはあえんの見舞いに来たときオテフセ団の話はしていないということだ。 (しかしあえんは木越のまんじゅう顔見てもぜんぜん驚いてなかったな。あんなになっても好きなのか)  乙女心のわからない鉄である。 「お兄ちゃん」 「なに」 「来年、絶対受かって。木越さんのためにも」 「おまえ、そこまで好きなわけ?」  いくら自分が木越に勉強みてもらっているからとはいえ、深刻すぎやしないか。 「メス握って一人でも多くの患者さんを助けてあげてよ」 「……努力はするよ」 「あやふやなこと言わないでって言ってるでしょ。お願いだから」 「ごめん」  あえんがあまりにも真剣だったから、鉄は言い返すということができなかった。  どこかで犬の遠吠えが聞こえる。 「野良犬が増えてるね」  あえんがぽつりとこぼす。 「野良犬っていっても血統書つきの犬が多いんだって。無責任に捨てる人が多いからだって」 「そういやあ、最近野良犬捕まえている保健所の人よく見るな」  犬はほとんど首輪をしていた。捜している飼い主もいると信じたいが、柴浦肛門科医院の患者さんが、言うこと聞かないから捨てたって人がいるとか、子供を噛んだから捨てたとか、交配させたけど子犬の引き取り手がなくて捨てたとか引っ越しするから捨てたって人がいると話しているのを耳にしたこともある。 「木越さんが飼っていた柴犬が、散歩中に野良犬に吠えられて突然走りだしたんだって。木越さんそのときリードをつかみきれなくて、野良犬を追いかけた柴犬は車にはねられて死んじゃったんだって」  そういえば、柴犬のクロをだしたとき木越は自分が死なせた犬のイメージと言っていた。 「その野良犬も柴犬だったんだって。赤い首輪した飼い主のいない犬」 「それは、可哀相だったな」 「木越さんはリードを握れなかった自分を責めてたけど、あたしはその柴犬を捨てた飼い主が悪いと思ってる。その人が犬を捨てなければ木越さんが傷つくことなかった」  あえんは石を蹴った。  それから1ヶ月たったとある日曜の朝、突然母がにこやかに言った。
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