シアワセ口座

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 嫌な夢を見た。  夢であってくれ、そう願った時、彼は目を覚ました。目の前に広がるのは確かに現実だったが、夢と同じように、あの子は居なかった。  幸彦はぼんやりしたまま、スーツを身に纏ってリビングへ降りる。 「おはよう」  妻の郁恵が、にこりと微笑んで声を掛けてきたが、幸彦は目をやっただけで、頷きの一つも返さなかった。  彼の目はやがて、隅の仏壇へと移る。写真の中で微笑む、一人の少女。彼は未だによく分からなかった。あの子が居なくなったという事――娘が死んだという事が。  美咲が死んでから、もう一年になる。その知らせは、あまりにも突然だった。  単なる事故だった。階段から足を滑らせて、打ち所が悪かったのだ。夢を叶えた彼女は人一倍頑張り屋で、仕事をしている時が一番輝いていた。忙しく生活しているその時が、彼女にとっての幸せだったのだ。大荷物を抱えて階段を駆け下りていたんだから、仕方ない。それに大好きな仕事中に死を迎えられたのなら、彼女にとっても本望だったかも知れない。誰の所為でもない。そう、二人は事態を受け止めた。あんまり悲しんでは美咲も可哀想だと、葬儀もそこそこに、またいつも通りの生活をしようと……。  ところがそんな生活は、簡単には戻って来なかった。というより、いつもの生活がどういうものだったか、もう分からなくなってしまったのだ。幸彦は自分こそが屍になってしまったような、そんな気分で一年を過ごして来た。自分は一体何の為に生きているのか……。  空っぽな体を抱えて、今日もまた会社に向かう彼は、只の作業を繰り返すロボットの類と何ら変わりはないのであった。
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