シアワセ口座

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 その日も、そんな作業を終えた帰り道だった。何を感じる訳でもなく、ぼんやり俯いて、後ろへ流れていくアスファルトを眺めていた。  と、彼の足が突然、ぴたりと止まった。  “Fourth Dimension”    Antique shop      ⇒  チョークだろうか、道に書かれた白い文字。只の落書きにしては、大分凝った書き方をしていた。幸彦は大して学のある人間ではなかったから、何かの(shop)、という事しか分からなかった。  矢印は右を指している。彼は漸く顔を上げた。  確かに彼の右側には小さな店が、鬱蒼と茂る木々に隠れるようにして立っていた。  毎日通っている道だが、こんな店は見た事がない。いつの間に出来たのだろう。確かに隠れるように立ってはいるが、流石に気が付かないという事は……いや、いつも下ばかり向いて歩いていたから、気が付かなかったのかもしれない。そういう客を捕らえる為に、道にあんな表示を書いたのだろう。  彼は暫くその店を眺めていたが、気が付くとその店へと歩き出していた。何かに引き寄せられるように、ドアノブに手を掛ける。  軽やかなベルの音が迎え入れた場所は、温かな光に包まれていた。整然と並ぶ棚、其処には、小説の隣に雑誌が置いてあったり、招き猫の貯金箱の隣に腕時計が置かれていたりと、ジャンルを全く無視した置かれ方をしていた。しかしその全ての物には、何だか不思議な雰囲気を感じた。幸彦は気になって、その中の一つに右手を伸ばす。 「いらっしゃいませ」  突然後ろから声を掛けられ、彼は出しかけた手を慌てて引っ込めた。振り返ると、青い目をした男性が立っている。店主だろうか。 「気に入りましたか? それ」  彼の青い目は、幸彦の右手に行っている。見ると、幸彦はいつの間にか商品を握っていた。 「あ、いや、これは……」  慌てて戻そうとすると、店主はにこりと微笑んで言った。 「良いんですよ。それが今、貴方に必要という事です」  幸彦が握っていたのは、物々しい装飾の描かれた、横長のノートのような物。それはまるで…… 「……通帳?」 「正解」  店主はまた笑った。  勿論、幸彦には自分の口座があるから通帳は持っているし、これが今自分に必要というのはどういう事だろう。 「これは普通の通帳じゃあないのですよ」  そんな幸彦の胸中を察したのか、店長が話し始めた。 「貯まるのはお金じゃない。此処に貯まっていくのは “シアワセ” の為のポイントです」 「幸せ?」 「何か叶えたい事が、お有りなんでしょう」  その言葉に、幸彦はどきっとした。  彼の戸惑いに反して、店主は相変わらずの笑顔のままだ。その目の奥の真意が読み取れずに困惑する。しかし、叶えたい願いがあるのは事実だった。 「……どうすれば、良いんですか?」  無意識に、彼はそう尋ねていた。店主はにこにこしたまま答える。 「普通の通帳とおんなじです。ATMに入れるだけ。あ、普通のATMに入れないで下さいね」 「じゃあ何処に……」 「それは、然るべき時に現れるというやつです。まあ、心配する事はありません。きっと気付かれる事でしょうから……」  店主の言う事を理解するのに、そう時間は掛からなかった。次の日、そのATMは現れたからだ。  銀行に現れたのではなかった。本当に道端にぽつんと、それはあった。その時は、煙草屋の前にどんと構えていた。その異様な雰囲気に、流石の幸彦も気付いたという訳だ。  いつもと同じように、あの通帳を入れてみた。戻って来た通帳を見ると、確かに印字がされている。  2019/08/03|500|シアワセ  顔を上げると、もうATMは無くなっていた。煙草屋のお婆さんが怪訝そうに幸彦を見ているだけである。彼はちょっと会釈をしてから、そそくさとその場を去った。  その後も、不定期にATMは現れる。彼の毎日は徐々に変化を見せてきていた。空っぽな心に何かが、少しずつだが満たされていくのを感じていた。 「最近、元気そうね」  郁恵は彼に、そう声を掛けるようになった。彼が漸く元気を取り戻してくれたのだと、彼女は嬉しかったのだ。しかし彼は、彼女には通帳の話をしなかった。言っても信じてくれないだろうと、そう思っていた。
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