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場面二 従兄弟たちの夜(二)
別に、年少の従弟に煽られたつもりはない―――が。
だが、昨年、肥前から江戸へ出る前に、枝吉は島を犯した。それも、男と情交の経験などあるはずのない、生娘同然の男を縛りつけ、好意を示す言葉も選択の自由もほとんど与えず、一方的に思いを遂げてしまった。
確かに、一方的ではあっても無理矢理ではない。ほだされたから、と従弟は苦笑して、途中で一切の抵抗をやめた。
『解いてくれんか』
縛られた手首を揺すって、従弟は言った。
『痛かとか』
『痛うはなかばってん、こいでは、何もしてやれんぞ?』
この男はどこまでお人好しにおめでたく出来ているのだと、一瞬、枝吉は呆然とした。
縛り上げられているのに、何もしてやれんから戒めを解け、とは、普通の男は思わぬだろう。
ほだされた、と従弟は言った。それはつまり、枝吉の熱に引きずられたということだろう。島団右衛門という男は、決して意志薄弱にふわふわと情況に流されるようなひ弱な性質(たち)ではないが、義侠心に富んだ感激屋で、他人の苦しみを放っておけないところがある。
友に対するその思いやりと誠実さは、枝吉の身の内にある持てあますほどの情念と、あまりにも違いすぎる。竹を割ったような正義漢である島に、枝吉と同じ気持ちを求めるなど愚の骨頂だが、気の置けない友だった男に、こんな風に腰の引けた態度を取られるのは辛い。
決して成就しないこの恋のために、誰よりも大切な友を失ってしまったのか。
長い長い片恋は、いつから抱いた思いなのか―――もう自分でも判らない。
「世徳」
手の中の酒盃の、ゆらゆらと揺れる液面を見つめていると、不意に年少の従弟が気遣わしげに言った。
「大丈夫か」
枝吉は、眉間に皺を寄せる。
「大丈夫とは」
「わさんら、今日は一度も目を合わせとらん」
年下の従弟は、案外観察が鋭い。
「おいがおっては話のしづらかろうけん、一人で行けと言うたんじゃ。ばってん、団にょんが怖じ気づいてしもうて、一緒に行くてきかんもんでの。邪魔ばした」
枝吉は薄く笑う。
「………臆病で手のかかっ従弟どのじゃの」
「全くじゃ」
屈託なく木原は笑い、のそりと立ち上がる。
「連れて帰った方がよかなら起こすし、置いて帰った方がよければおいは一人で帰る。どがんすっと?」
「泊ってゆかんと?」
「明日の朝、古賀先生ば訪ねんといかん。団にょんは学校には入らんと言うとっが、おいは決めかねとっけん、相談ばしたか」
昌平坂学問所は元々幕臣の学校として作られたため、各藩の者は誰か学問所で教えている儒学者の門に入り、その門下生としてしか入学が出来ないことになっている。古賀先生とは佐賀藩士の古賀?庵のことで、枝吉もその門下である。
「そうか」
「団にょんは、どがんすっと? 置いてゆくけん、二人で飲み直すか?」
枝吉は、再び床の従弟を見た。
木原と一緒でなければここへ来たくないと言った友は、もう、枝吉に心を許してはくれないだろうか。
眠っている時以外、無防備な姿を見せることはないのだろうか。
枝吉は、友を失ったのだ。こちらに背を向けて去って行こうとする者に、この気狂いのような執着をさらしたくはない。
枝吉は酒を呷った。
「連れて帰ってくれ」
木原は、じっと枝吉を見た。
「団にょんも臆病じゃが、世徳も、案外と思い切りの悪か」
「やぐらし」
思い切り、とは何か。一体、どう思いきればいい。
枝吉は立ち上がる。
「おいはちかっと水ば飲んでくっけん。早う連れて帰れ」
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