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場面一 恋の重荷(一)
「団にょん?」
廊下に立っていた島の背に呼びかけたのは、二十歳になったばかりの従弟、木原弘三郎である。母方の従弟である木原は、島よりも四歳の年少である。団にょん、は島の名、団右衛門を略したものだ。
木原はのそりと部屋から出て来て、島の横に立った。二人とも旅装を解いたばかりで、袴を脱ぎ捨て、着流しの楽な姿でいる。
「おお、梅が綺麗じゃの」
よく手入れされた梅の花が満開だ。梅の季節には少し遅いが、この樹は丁度見頃だ。
木原と島は、共に肥前佐賀藩士である。今は江戸城南、桜田門から東へわずかに下った日比谷門の南にある、佐賀藩上屋敷にいる。藩命により江戸遊学を命じられた二人は、今日の昼過ぎに江戸に辿り着き、とりあえず藩邸に入った。弘化二年(一八四五年)二月のことである。
木原はどこか焦点の定まらぬ、ぼんやりとした顔つきの男なのだが、学問は相当に出来るし観察力も鋭い。年下ながら中々見所があるというか、はっきり言って、茫洋とした風を装った、一種の食わせものである。
逆に島自身は、自分ではむしろ単純極まる人間だと思っているのだが、どうも聞くところによると、奥目がちの一重の目が何か腹に一物持っていそうに見えるらしい。他人の人物評など、つくづくアテにならないものだと思う。大体このデカイ口、デカイ声の男に、どんなたくらみが出来るものか。
「誰ぞ、謡(うたい)をやっとっ」
「謡?」
木原は今気づいた様子で、耳を澄ます。まだ肌寒い、仲春二月の澄んだ空気の中に、朗朗とした声がかすかに流れている。
名もことわりや恋の重荷
げに持ちかぬるこの身かな
それ及び難きは高き山 思の深きはわたつ海の如し
何れ以てたやすからんや
「『恋の重荷』じゃ」
意外にも木原は、この曲を知っていたらしい。
「声はよかばってん、随分と湿っぽい曲じゃのう。さては誰かに懸想でもしとっとか」
興味なさげに木原は部屋に戻り、文机に紙を広げる。
「誰踏みそめて恋のみち、巷に人の迷ふらん。名もことわりや恋の重荷、げに持ちかぬるこの身かな。それ及び難きは高き山、思ひの深きはわたつ海の如し。いづれ以てたやすからんや」
秀才の従弟は、これも中々によい声で、すらすらと諳んじてみせる。
成就させるのはあまりに難しく、捨ててしまうには深すぎる。手に負いかねる重荷。
それが、恋。
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