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09. 時には斜め上の発想が人を助ける
「よーし、設営完了! あとは開始の合図を待つだけだね~。今日もよろしく頼むよ、〝売り子さん〟!」
「うん、微力ながらお手伝いさせていただきます、〝kyo〟」
数日後。この日、知佳と響の二人はとあるイベント会場に来ていた。年に二回行われる大規模な同人誌の即売会で、響は販売側である〝サークル主〟、知佳はその手伝いである〝売り子〟としてほぼ毎回参加している。
知佳が呼んだ〝kyo〟という名は響のハンドルネームで、同人イベントに参加するときはその名で通している。頒布物は主に男性同士の恋愛模様を描く、所謂ボーイズラブものの漫画だ。元々響の職業がボーイズラブものの商業漫画家であることもあり、毎回行列が出来る程の人気ぶりである。とても一人では捌ききれないため、アパレル店員であり接客に慣れている知佳が売り子として駆り出されているのだ。
今はそのイベントの開場前、サークル側が設営準備をする時間であり、彼女たちのサークルはそれがようやく一段落付いたところである。
「ところでー、ともちゃん何かあった? なんだか今日は朝から元気ないよね」
「あー……うん、ちょっとね」
響の指摘通り、知佳は辛うじて笑顔を浮かべてはいるものの完全に愛想笑いで、普段よりも明らかに元気がない。恋愛に対して落ち込んだあの日から数日経った今もまだ、立ち直れていない様子だ。
「ん、んー、どれどれちょいと話してみ? お姉さんが聞いてあげよう」
「ひ、響姉さーん……」
「うむうむ、苦しゅうない。今日も最高の笑顔で売り子してもらうからね。あとここではkyoと呼んで」
「うー、kyo。実は……」
響の小さな体で抱き留められながら、知佳はぽつぽつとこれまでの経緯を話し始めた。
「……で、落ち込んでると」
「うん……。私、一生こうなのかな。叶うわけない恋をこじらせたままお婆ちゃんになって死ぬのを考えたら、すごく憐れに思えてきて……」
「お、おお……見事にこじらせてるね。いつものポジティブなともちゃんはどこにいったの」
説明を終えると、知佳は盛大な溜息を吐いた。知佳のあまりの落ち込みように、響はどうどう、と彼女の背を優しく撫でる。普段は前向きで明るい性格なだけに、この変化に付き合いの長い響さえも動揺しているようだ。
「うーん、私からすればそんな焦る様な事じゃないと思うけどな。今のご時世、女の幸せ=結婚、ってわけじゃないし」
「それはそう、なんだけど……。ただ私は譲さん限定ではあったけど、お嫁さんになることが夢だったから……」
「あー……、そっか。相手が誰であれ、ともちゃんにとっては結婚が目標だったわけだもんね。ごめん、ズレたこと言った」
「ううん、ひび……kyoが励まそうとしてくれてるのはよくわかってるから、大丈夫だよ。気を遣わせてごめんね、ありがとう」
響の助言は残念ながら知佳には合わなかったようだが、心配している気持ちは伝わったようで、実際に知佳の顔色は幾許か良くなったように見える。落ち着いた様子の知佳に対し、まだ納得がいかない響は暫く考え込んだ後、再び口を開いた。
「……ねぇ、ともちゃん。またズレたこと言ってたら悪いんだけど」
「なに? 言って」
「うーん、と……あのさ」
「うん」
誘導されながらも、響はモゴモゴと口篭もる。響はあまり話すのが得意ではない。普段ちょっとした受け答えや好きなことに関する話であれば不自由なく話が出来るが、考えながら話をする時には時間がかかりがちだ。それだけ響が真剣に考えているということだが、それがわかっている知佳もまた、不満に思うことなく彼女の言葉を待っている。
「ともちゃんさ」
「うん」
「……結婚、してみたらいいんじゃないかな?」
「……………………うん?」
長考の末の一言。なにをどうしたらそんな結論に至るのか、流石の知佳も察しがつかない。結婚が出来ないから悩んでいるのに結婚したらいい、とはどういう了見なのか。
「あ、ああああ待って! 今からちゃんと説明するから」
自分の発言を聞いてから完全に固まってしまった知佳に、明らかに説明不足であったと焦る響。コホンッと一つ咳払いをすると、順を追って説明し始めた。
「えっとね、ともちゃんは今、お嫁さんになるっていう夢が叶わなくなったって絶望してるじゃない? そもそも本当に叶わないのかな、って思って」
「……それは、実は私の知らないところで次元の壁を超える方法がとうとう見つかった、とか?」
「んー、ある意味そうとも言えるかな? 物理的に触れることはまだ出来ないけど、それをすれば事実上結婚したことにはなると思う」
「事実上、結婚出来る……! ……その、方法は!?」
話に食いついた知佳に対し、響は落ち着かせるように人差し指をピンと立てる。その顔は満足そうににんまりと笑っている。
「〝婚姻届〟を書こう」
「婚姻、届、を……?」
婚姻届。言わずもがな、必要事項を記入し役所に提出すれば、国から夫婦と認められる公式の書類だ。この国ではこの行為こそが〝結婚〟とされる。
「前にSNSで見かけたのを思い出してさ。実際に書いた人たちが興奮してあらぶってた覚えがあるよ。まぁ流石に役所に提出することは出来ないけど、そもそも書くこと自体に意味があると思うんだよね。名前を書いた二人が互いをパートナーとして認め合うことになるんだし」
「…………」
「どう、かな? ……ただまぁ単純と言えば単純だし、拍子抜けしちゃったかな。期待はずれだったらごめんね」
呆然とする知佳の様子に、響は自分の提案が幼稚すぎたかと不安を覚えた。震える声で自分の名を呼んだ知佳の顔を覗き込むと、知佳は不意に響の両肩に強く掴み着いた。
「ひび……kyo!」
「は、はい!」
「天才……?」
「てん……、はい?」
相手の発言に対して動揺するのは、今度は響の番であった。がっしりと掴んでいた響の肩を解放すると、困惑する響を余所に、おぼつかない足取りでテーブルに両手を着いた。
「えっ、天才すぎるそんな発想なかった。そうだ、結婚って言ったらまずは婚姻届だよ。式とか夫婦生活とかそういうことばっかり考えてたけど公式に夫婦になるには婚姻届を書かなきゃじゃん。婚姻届婚姻届……そうだ、認印作らなきゃ。譲さんの筆跡は? お店のチラシと……あと確か皆で手紙を書く話があったはず……何話だったかな……」
「待ってともちゃん。とりあえず落ち着いて。深呼吸しようか」
「あ、うん。そうだね、今すぐこの場で何か出来るわけじゃないし一旦冷静にならないと。落ち着いてから整理した方が思い付いたこと忘れなくていいかも。ああいやとりあえずメモ取っておこうかな」
「いいから深呼吸!」
ブツブツと囚われたように一人語りだす知佳に、響の表情が引きつる。響に背中を叩かれ、知佳はようやく言われた通り深呼吸をした。
「……落ち着いた?」
「はい、落ち着きました。みっともないところをお見せしてすみません」
「うん。まぁでもさっきよりだいぶ元気になったみたいだから、いいけどね」
響の言う通り、知佳はすっかり日頃の活気を取り戻している。先程までの落ち込み様が嘘のようである。
「うん! それはもう! 次の目標が見つかったからね! はぁ……結婚の準備が出来るなんて嬉しい。夢が一つ叶っちゃう……。婚姻届取りに行かなきゃ……いつ行けるかなできるだけ早めに……」
「深呼吸」
「ハイ」
興奮冷めやらぬ様子に、再び深呼吸を促されてしまう知佳。ごめん、と口にしながらもその表情に曇りはない。晴れやかな笑顔を浮かべる知佳に、響は満足そうに微笑んだ。
≪それでは只今より――≫
「おっ、始まるね。よろしくお願いしまーす!」
「よろしくお願いします!」
話が落ち着いたところで、イベント開始のアナウンスが流れ始めた。 二人は笑顔で頷き合うと、 これから始まる頒布と言う名の戦いに挑むのだった。
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