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07. あなたは誰?
「大丈夫? 知佳ちゃん。怪我してない?」
頭上から降って来る声。それはどこかで聞き覚えがある声であった。しかし、誰の声だったかは思い出せない。
優しく気遣うような声音に少しずつ冷静さを取り戻すと、知佳は今の状況を確認した。傾いた体、視界に広がるコンクリートの地面。体に伝わって来る人肌の温もり。手に触れるがっしりとした体躯。至近距離から聞こえた声。それらの要素から、ようやく知佳は転びそうになったところを誰かに抱き留められたのだと気が付いた。
「胸に飛び込んでくるなんて、熱烈だなー? もしかして気になってたのは俺だけじゃなくて知佳ちゃんもだった?」
(この軽薄な喋り方……もしかして!)
自分を名前で呼び軽快な喋りをする人物に、知佳は心当たりがあった。知佳は体を起こすと、彼に礼を伝えようと顔を上げる。
「ありがとうございます。助かりました、梶谷さ……え?」
心当たりはあった。が、その予想は大きく外れていた。
「えっ……!? る、瑠璃垣さん!?」
そこにいたのは、瑠璃垣俊。暗く消極的で、知佳が世話を焼いても会話が続かなかったあの男性であった。
「あー、残念! もう離れちゃったんだ。もっとくっついてくれててもよかったんだよ?」
(……誰?)
姿は俊。喋り方や内容は爽太。声音を変えているのか、声は俊らしいが初対面の時より声が高い。
(兄弟? でも服はさっきと同じ……やっぱり本人!? えっ、でも……誰!?)
今目の前にいるのは、姿は同じでも知佳の知っている俊ではない。違和感ばかりで知佳は頭が混乱し始めていた。
「誰だよ、お前! 神崎さんは僕と用があるんだ。関係ない奴は引っ込んでろ!」
そうこうしているうちに、這いつくばっていた男が立ち上がろうとしていた。綺麗だったはずのスーツがすっかり砂や泥で汚れている。
「だから私は貴方に用はないと……!」
「知佳ちゃん、俺に話合わせてくれる?」
「へ?」
爽太のような言動の俊は知佳にだけ聞こえるように小声で囁くと、知佳の体を自分の方へと抱き寄せた。
「関係はあるよ? この子、俺の彼女だし」
「「は!?」」
「だから知佳ちゃん、合わせてってば」
「ご、ごめんなさい……」
知佳は俊の発言に思わず反発してしまったが、どうやら俊は恋人であると嘘をついて男に知佳を諦めさせようとしているらしい。その意図を汲み取ると、より恋人らしくするために俊に体を寄り添わせる。その対応に驚いたのか、俊の体がビクッと震えた。
「そ、そんなわけないだろう! じゃなきゃ婚活なんてしてるはずない!」
「うーん、正論。けど残念。付き合いだしたの、さっきのパーティーからだから」
「は!?」
(知り合って数分でお付き合い……スピード交際だな)
正論に対する嘘の正論。早々起こりえない事態だが、筋は通っている。男が驚愕するのも無理はないだろう。
「もう俺たちお互いに一目惚れでさー♡ グループ行動なのに周りに止められるまで二人でばっか話してたし、ねー?」
(前半はともかく、後半は本当だしね)
向けられたにこやかな笑みに、知佳もまた笑顔を返す。少しやりすぎな気もするが、相手にはきっと仲睦まじく見えていることだろう。
「私ばーっかり話しちゃったけど、彼ってば文句ひとつ言わずに話を聞いてくれたし、ちらっと見える笑顔はかっこいいし……もうこの人しかいない、って思っちゃった!」
「そんな……!」
俊に向かって微笑みながら、知佳はチラリと男を盗み見る。すっかり意気消沈したらしく、地面に手をついたまま項垂れている。これでもう追ってくることはないだろう。
「それじゃあ俺たち、もう帰るから。気をつけて帰りな」
「さようなら」
男に背を向けると、俊は知佳を守るように背にを回しながら歩き始める。俊に合わせて歩き出しながら、知佳は再び男を振り返った。
「っ!?」
頭を垂れていたはずの男の目は、真っ直ぐに知佳を睨みつけていた。遠目からでもそれが恨みがましいものだとわかる。
「……!」
思わず身震いすると、俊の手が優しく知佳の肩を叩く。驚いて見上げた先には、宥めるような優しい笑みが浮かんでいた。
(……瑠璃垣さん)
俊の優しい表情に、恐怖の感情はつゆと消え、知佳は胸の内がホッと温まるのを感じた。
「あ、そうそう。俺たち知り合いに警察がいるから、これ以上知佳ちゃんに近付いたら即相談させてもらうから、そのつもりで。今日のを傷害で訴えられないだけマシと思っておけよ」
不意に足を止めた俊だったが、それだけ言うと再び歩き出す。チラリと盗み見た彼の目付きは鋭く、おそらく向こうからは恐ろしい表情で睨みつけたように見えていることだろう。後方から、ヒィッ! という悲鳴が聞こえ振り返れば、慌てて走り去る男の姿が目に入った。
「あの、ありがとうございます。瑠璃垣さん」
「どういたしまして。駅に行くの? よかったら送っていくよ。ここは少し道が暗いからね」
「すみません、ありがとうございます」
男の姿が見えなくなったこともあり、既に離れて歩いている。改めて礼を伝えると、俊はにこやかに微笑んだ。俊が助けに来ていなければ、怪我の一つや二つくらいはしていたことだろう。体だけではなく心にも消えない傷が出来ていた可能性もある。感謝してもしきれない。
「あの、瑠璃垣さん、なんですよね?」
「うん、そうだよ。他の誰に見える?」
「えっと、梶谷さんに……。なぜ梶谷さんのような言葉遣いを?」
姿や声は確かに俊。けれど言動は相変わらず爽太のままだ。一体なぜ俊が爽太のような言動をしているのか、はたまた実はこれが素なのか、納得のいく答えが見つからなかった。
「…………」
しかし、知佳の問いに対する返答はない。表情を見る限り、怒っているわけではなさそうだが、何を考えているのか見当がつかなかった。
「……えっと、瑠璃垣さん?」
「……〝神崎さん〟」
沈黙を決める俊であったが、次に口を開いた時には元々の低い声音に戻り、呼び名も名前ではなく名字に代わっていた。
「……申し訳ないけど、もし俺に少しでも恩義を感じているなら、今日のことは忘れてくれないか。出会ったことも、全部」
「……え?」
突然雰囲気が変わったことにも動揺を隠せないが、何より発言の内容だ。忘れてくれとはどういうことか。
「俺を覚えていたら、あの男とのことも忘れられないかもしれない。そっちも忘れた方が都合がいいはずだ」
「あ、あぁ、なるほど。お気遣いいただいたんですね。ですが大丈夫です。少し怖い想いはしましたが、瑠璃垣さんのおかげでもうすっかり元気ですので!」
「……そういう意味じゃない。けど、まぁいい。……とにかく、俺のことは忘れてくれ。言いたいことは以上だ」
「は、はぁ……」
それ以降、駅に到着するまで俊は本当に何も言わなくなってしまった。それでも宣言通り駅まで送ってくれるのだから元々律儀な性格なのだろう。
(最初から最後までよくわからない人だったな……。機転を利かせて助けてくれたし良い人なんだろうけど、多分関わりたくないってことなんだろうな。それだけ私に興味がないってことなのかも)
帰宅後、改めて俊のことを思い出してみる。会話は弾まず口数は少ない。突然人が変わったかのような振る舞いをする。けれど困っている人は助けてくれる。非常に変わった人間なのは間違いない。
(忘れてくれって言われたことだし、忘れちゃおう。連絡先は交換してるけど、連絡欲しがらないだろうな)
本当ならば礼の一つや二つを改めて言いたいところ。しかし、それを本人が望まないのであればやる意味はない。
俊と襲ってきた男性以外にメッセージを送り終えると、知佳は早々に眠りについたのだった。
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