08. 理想と現実の狭間に揺れて

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08. 理想と現実の狭間に揺れて

「はぁ……疲れた」  ある日のこと、街コンで知り合った男性とのデートを終えて帰宅すると、知佳はその足でベッドへダイブした。婚活を開始してからというもの、彼女は隙間の時間を見つけては連日デートへと繰り出していた。  デートに誘われる度に、知佳はよほど都合が着かないことがない限り、全て断らずに受けている。これは今までの彼女にはなかった行動であり、現実の恋愛に対する前向きな一歩であると考えられるだろう。しかしながら、デートまでこぎつけてもいざ交際を申し込まれると、相変わらず断っているのが現状だ。  交際を申し込んできた男性の大半は、性格や考え方性の相性、見た目や経歴など申し分ない人が大半であった。つまり、男性に大きな問題があるわけではなく、ただ知佳が交際にまで踏みきる勇気がないのが原因であった。  本当にこの人と交際してもよいのか。自分はそれで後悔しないのか。試す前の段階で足踏みしてしまい、結果お断りをしてしまう。その繰り返しだ。ただ前述の通り、交際には至らずともデートに誘われれば基本的には受けているため、彼女は体力的にも精神的にもすっかり疲弊してしまっていた。 「譲さんに会いたい……」  そう呟くや否や、のそりとベッドから体を起こし、テーブルの上のリモコンを手に取ると、テレビの電源をつけた。レコーダーに入れたままになっていたブルーレイを再生すると、再びベッドに体を横たえる。 「譲さんも一緒に見ようね~」  枕元に手を伸ばすと、傍に飾っていたぬいぐるみを胸に抱き抱えた。知佳の腕の中にすっぽりと収まる全長三十センチのそれは、彼女が自作した譲のデフォルメぬいぐるみである。見た目の可愛らしさはもちろんのこと、触ったときの感触、柔らかさ、抱き心地、本来見えない衣装の裏地部分と、細部まで何年も研究し尽くし作り上げた傑作。これを譲に見立てて可愛がるのが彼女の日課となっている。  再生された映像は、もちろん知佳が好きな女児向けアニメ、キュアマギである。その中でもこれは各話の癒し鯛時間だけを収録した内容で、知佳は時折これを見ては日々の疲れを吹き飛ばしている。なお、このコアなファン向けに発売されたブルーレイだが、制作発表当初には予約が殺到した影響で一時サーバーが落ちたという。 「来た来た……!」  画面の中ではヒロインの恵(めぐ)と希(のぞみ)が学校終わりに商店街を歩いている。今日の宿題について不満を口にする恵を、優等生の希が諌めるというありふれたワンシーン。ちょっとした言葉の綾で口論になりかけたところに、知佳が待ち望んでいた彼が店先から顔を出すのだ。 『おやおや、仲良しさんだね』 『『譲さん!』』 「きゃー! 譲さん来たー!!」  胸の中の譲のぬいぐるみをギュッと強く抱き締め、知佳は歓声をあげた。すっかり物語に入り込み、自分もその場にいるような気持ちになっているようだ。 『譲さん聞いてよ! 希ってば私のこと馬鹿だっていうんだよ!』 『馬鹿なんて言ってないよ! 遊ぶ前に取り掛かれば、ちゃんと宿題は終わるでしょ、って言っただけで』 『学校終わったら普通遊ぶもんじゃん! 帰ってすぐに勉強するなんて私には出来ないんだよ。まぁ、優等生の希には出来ない人の気持ちがわからないんだろうけど?』 『なによその言い方! 私だって遊びたくないわけじゃないけど、宿題はやらなきゃいけないことだから先にやってるんじゃない!』 『まぁまぁ二人とも。レディがそんな大声でいがみ合うものではないよ』 「ん~、譲さん、止め方も素敵~。レディって言われた~い!」 『さぁ、甘いものでも食べて、少し休憩していかないかい?』  そう言って譲が指差したのは、自身の経営する鯛焼き屋だ。譲の言葉を聞いた途端、二人は目をキラキラと輝かせた。もう頭の中は鯛焼き一色。口論の内容などすっかり忘れてしまったらしい。 『譲さんのたいやき! 私チョコ味がいい!』 『私はカスタード味がいいな』 「私はつぶ餡で!」 『はいはい、ちょっと待っててね』  店の中へ戻ると、譲はエプロンを結び直し、鯛焼き作りに取り掛かる。温めておいた鯛焼きの型の鉄板に、特製の生地を流し込む。じゅわ……と音を立てれば、外から作業を覗き込む二人の口が半開きになった。恵に至っては涎を垂らしそうになっているではないか。  彼女たちの希望の餡を生地の中に優しく落とし込み、鉄板に蓋をする。これで数分待てば、譲特製の鯛焼きの完成だ。 『はい、お待たせしました』 『うわ~、美味そう! いただきます!』 『わぁ、生地がふわふわ……いただきます!』 『ふふっ、さぁ、召し上がれ』 「私も食べたい~!」  ここからは恵と希の各アップの映像に切り替わる。熱々の生地に格闘しながら、恵は大口で、希は小さくかぶりついた。その直後、二人は揃って目を細め唇を弧に描き頬を赤く染め、極上の笑みを浮かべるのだ。 『ん~~~~!! 美味しい!!』 『はぁ~~これだよ! 超うめぇ!! やっぱ譲さんの鯛焼きは世界一だよな!』  『はははっ、お褒めに預かり光栄ですよ』  鯛焼きを幸せそうに頬張る二人の姿に、譲は柔らかな笑みを浮かべる。彼の笑みもまた、彼の心からの幸福感を表しているようだ。ヒロインたちと譲の笑み、そして和やかで温かな空気、これが癒し鯛時間の真骨頂なのである。 「うぅ~~、美味しそう……食べたい……。あぁ……譲さんの笑顔素敵……。やっぱり好き……ちょっと困ったような笑顔が堪らないよ……!」  画面全体に譲の笑みが表示されている状態で、知佳は映像を止めた。譲の笑みを見つめてはぬいぐるみに顔を埋め、彼への情念に身悶えしている。なんとも滑稽な姿だが、本人は至って真剣である。 「はぁ……、譲さん……」  数分後、ようやく興奮が収まると、知佳は深い溜息を吐いた。その表情は曇っており、明らかに元気がない。 「おかしいな、いつもならこれで回復するのに」  癒しを求めて見始めたはずの映像だが、むしろ逆効果であったらしい。見る前よりも心が暗く沈んでいることに知佳は気がついた。見ている間は確かに心が弾み、譲やヒロインの言動や表情に細かく反応できていたが、今はそれらを思い出すと悲しくて仕方がない。その原因は何かと思案を巡らせた結果、知佳は一つの結論に辿り着いた。 「そっか。この笑顔は私に向けられたものじゃないからか」  画面に映る、幸せそうな譲の笑み。それは恵と希、キュアマギという創作の世界で生きる人々に向けられているものであり、現実の世界で生きる知佳に向けられたものでは当然ない。そんなことは知佳はとっくに理解している。それでも画面の向こうの彼に、彼女は恋をした。あの笑顔を自分に向けられたいと、彼の隣に並び立ちたいと、そう願ってしまったのである。  しかし、当然ながらどんなに激しい恋心を抱いても、情念の炎を燃やしても、知佳の愛する彼は二次元の存在。あくまで創作物の一登場人物でしかなく、実際に知佳が話したり触れたりすることはどう足掻いても不可能なのである。 「恋愛で悩んでるときに見るものじゃなかったな……」  知佳はブルーレイの停止ボタンを押すと、そのままテレビの電源も落とした。真っ暗な画面に映るのは、ぬいぐるみを抱き締めながらベッドに横たわる一人の憐れな女の姿。その滑稽さに、彼女は自虐的に笑うのだった。  彼女の婚活がうまくいかない理由は明白であった。知佳は譲に対する恋心が大きすぎるがあまり、男性に求めるハードルというものが常人よりも異常に高い。一般的に魅力的だと言われる男性であっても、つい譲と比較してしまい、彼との相違点を見つける度に気持ちが覚めてしまう。男性から好意を寄せられても、知佳がそんな様子では実際に恋愛をしようとしても出来るはずがない。恋愛関係に至る前に挫折してしまうのだから、当然であった。 「私は一生このままなのかな。譲さんと結ばれるためだけに、ずっと努力してきたのに。……まぁ、当たり前だよね。その前提自体が、叶うはずもなかったんだから」  創作物の存在と結ばれるはずがない。そんな常識は知佳も当然理解していた。けれどその事実に、彼女はこれまで向き合わず無意識に目をそらしてきたのだ。幼少期に抱いた生きる目的、それが譲との恋愛であったから。 「譲さん、どうして私の世界にいないの。どうして私に笑ってくれないの。どうして話すこともできないの。どうして、どうして……。貴方と結ばれないのなら、私はもう、どうしたらいいの……」  逃げ続けてきた現実に直面した今、彼女の心はボロボロになっていた。知佳は、誰に伝えるでもなく押し殺せない想いをひたすらに吐露した。そうすることで混乱して壊れかけている心を整理しようと、防衛本能が働いているのだろう。彼女の心の叫びを聞く者はいない中、ただぬいぐるみの譲の髪が静かに濡れていく。まるで、彼女を慰めようとしているように。
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