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通の部屋に来るのは、実はこれが三度目だ。独り暮らしを始めたときに引越の手伝いをしに来たのと、その何日か後に遊びに来たのが最後だったと思う。キリがここに住むようになったからだ。
呼び鈴を押すと、すぐにドアが開かれた。想像してたより薄化粧の顔は、僕を見ても躊躇する素振りすら見せなかった。
「…君が…宮野キリさん…?」
「そうよ。とにかく上がって」
「人見知りだって聞いてたけど…」
やっぱり、最初に聞いていた話とは随分印象が違っている。
「通からいつも聞かされているのよ。だから、初対面だなんて思えなくて」
苦笑混じりに答えられて、納得しつつも少し哀しくなった。この狭い部屋で、通はどんな風に僕のことを話していたのだろう。
「どうぞ座ってて。お茶を淹れるわ」
キリはそう言うと、流しの前に立った。僕は靴を脱ぎながら、大きく様変わりした友人の部屋を見回した。引越した当時は家具も最低限しかない、殺風景な部屋だった。それが今は細々とした雑貨やなんかが飾られていて、同棲中と言うよりは、女性しか住んでいないような部屋になっている。狭い玄関の靴箱にはパンプスが二足とサンダル、ブーツが並んでいて、男物は古びたスニーカーが一足あるだけだった。
「急に電話しちゃってごめんなさいね」
コーヒーのカップをテーブルに並べながらキリは言い、再度僕に座るよう促した。この二人掛けのテーブルにも見覚えはない。
「…通もキリを探してたよ」
キリの向かいに座りながら、目の前のカップに視線を落とした。通の趣味とは思えない大輪の花模様をひたすら眺める。キリの顔を、真正面から見たくなかった。
「そうなのね…。じゃあ、入れ違いになってしまった、ということかしら」
キリは困ったようにため息をついた。片肘をついて小首を傾げるような仕草が視界の端に入る。テーブルが小さくて、向かいまでの距離がやたらと近い。椅子もかなり後ろにずらしておかないと、膝同士が当たってしまいそうだ。
「そう…なるのかな」
僕は俯いたまま、ほとんど投げ遣りに言った。
「君が気まぐれに帰ってくるように、通もそのうち帰ってくるとは思うけど」
「あら」
つっけんどんな僕の言い様に気分を害したのか、キリは少し憤慨したような声色に変わった。
「あなたは通が心配じゃないの?」
「心配はしてるよ。でもそれは、君とは違う心配だ」
「なによそれ。どういうこと?」
「君がこうして僕の前にいることの方が、僕には心配なんだ」
「…なに?」
どうしてか、キリは小さく吹き出すようにして言葉を切り、小馬鹿にしたような笑いを含ませて言った。
「私がここにいるとまずいみたいな言い方ね。私と二人でいると通が妬くとでも思ってるの?」
「…まあ、そうでもあるけど、そうじゃないよ」
「はっきりしないわね」
苛立った風でもなくキリは言い、少し長めの息を吐いた。
「でも、あなたが私をよく思ってないのだけは判った気がするわ」
「そうだね。好きではないよ」
きちんと意思を伝えるために、僕は顔を上げた。キリは怯むことなく僕の目を見返してくる。僕が覚悟を決めてきたのと同じように、キリもまた、思うところあって僕に対峙しているのだ。腹の括り方は、相手の方が一枚上なのかもしれないが、僕も負けるわけにはいかない。
「気が合うわね。実は私もずっとあなたが嫌いだったのよ」
キリは、にっこりと笑った。そして更に、
「だって、通ったらずっと、私よりあなたの方が好きだったんだもの」
少しも表情と声色を変えずに言い切った。だから、僕も無表情なまま、抑揚のない声で答えた。
「───知ってる」
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