カトリィヌとマンボウ

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カトリィヌとマンボウ

 酸っぱい臭いを冷房の風がかき回す室内に、疲れた顔をした男とカトリィヌが対面に座っていた。  二人の間に置かれたテーブルには一台のノートパソコンが置かれていて、その画面は男のほうに向けられている。彼は足元に置かれたゴミ箱から顔を上げると、汗を吸い込んだハンカチで口元をぬぐう。  静かにため息をついたカトリィヌは、髪の毛をいじりながら何かを考えている様子だったが、足を組みなおして薄桃色の唇をひらいた。 「清水さま。奥方さま、真っ黒でしてよ」  清水と呼ばれた男は沈黙したまま、震える手でパソコンを操作する。いくつも並んだファイルのうちのひとつ、動画をクリックした。  男女が激しくセックスしている様子が再生された。動画の女は、自身の夫――清水へむけた悪態を交えながら、目の前で腰をふる男に向かって愛を叫んでいる。  落胆の声をもらした清水は、ソファの背もたれに全身を預けて天井を見上げた。 「写真に動画、通話アプリの録音に、メッセージテキストのコピーも。おまけに相手の住所や氏名、仕事先や家族構成まで――」  ええと、と彼は言いながら、ワイシャツの胸ポケットから取り出した名刺に目を落とす。 「――虫……ナントカ探偵のカトリィヌさん」 「その漢字は、けら、と読みますわ」 「し、失礼しました。あまり見たことのないもじでしたので……」  微笑みを浮かべるカトリィヌは、気にしないでと手をふる。 「しかし、妻や相手の男にも気がつかれずに、たった二週間でよくこれだけの証拠を集められましたね」 「わたくしにはちょっとした体質と、数えきれないほどの協力者がおりますので。もちろん、今この部屋にも――ね」  周囲に目配せをするカトリィヌにつられて清水も部屋を見回すが、この部屋には二人の姿しか見当たらない。  事務机と本棚、センターテーブルとソファ以外には家具らしい家具も置いていなかった。その代わりなのか、大きな水槽が複数個、床を占拠している。  水槽の中には、どれも半分くらいの高さまで水が入れられているが、魚などの姿は見えない。水面だけが黒かった。 「なんだか幽霊でもいるみたいで気味が悪いですね」 「蚊なら、ございます」 「か?」 「私たちの血を吸いに、フラ、フラと飛んでくる昆虫ですの」 「蚊が協力者? そんなことがあるわけが……」 「さようでございますか――」  カトリィヌの身体が形をなくして、おびただしい蚊の群れに変化した。  蚊たちは、奇声をあげて震える清水の背後に回り込むと、再び密集して服を着たカトリィヌの身体を形作る。 「カトリィヌさんは、手品師か超能力者か何かだったのですか……」 「わたくしは、身体を蚊に変えることが出来て、他の蚊たちとお話ができる――ただの体質ですの」 「そんなバカな事が……」  ソファから滑り落ちた清水の肘が、ごつんと水槽の角にあたる。反射的にぶつかった方に目を向けた彼は、黒い水面を間近に見ることになる。  黒く見えたのは、びっしりと浮かぶボウフラだった。 「それと、恐れいります。ご依頼いただいた二つのうちの一つ、二週間前に行方不明になられている、清水さまのお嬢さまの手がかりはまだ掴めておりませんの。ほうぼう手を尽くしておりますが……」 「お金なら用意します! こっ、殺さないでぇ……」  清水が履いているスラックスの、股間部分がじっとりと濡れてゆく。  カトリィヌは頬に手をあててため息をつくと、事務所内に来客を知らせるチャイムの音が響いた。  身体を震わせる清水を横目に、カトリィヌが時計を見る。ちょうど十二時を指していた。 「まあ……もうこんな時間になっていたなんて。清水さま、今日は奥さまの事でショックを受けておられる様子ですし、もうお帰りになられた方がよろしいかと……」  取れてしまいそうな勢いで首を振った清水は、ソファに置いていた自分の鞄をつかむと、自分の脚に蹴つまずきながら扉へ走った。 「清水さま――」  ドアノブをつかんだ彼の肩に、そっ、とカトリィヌが手をかける。  その手は、清水の二の腕をなぞって肘を越え、そのままゆっくりとした動きで手の平まで辿り着くと、彼にUSBメモリを握らせた。 「――お忘れでしてよ」 「ぁりがとうございます……」  扉をあけ、外にいた大男に驚き再び奇声をあげた清水は、エレベーターのボタンを押したにもかかわらず非常階段を駆け足で降りていく。  それを見ていた大男は、眉間にシワを寄せて口を開く。 「またですか……特異な体質を生かした依頼成功率の高さが売りでも、そうやっていつも相手を驚かせてばかりだから、こうやって僕にお昼ご飯をたかるような貧乏生活になるんです」 「まあ……これはマンボウ警部さま、お暑い中いつもありがとう存じます。はなはだぶしつけではございますが、わたくし昨日の夜から何も口にしておりませんの」 「はいはい……何度でも言いますが、僕の名前は天堀宗一郎ですから。ちょうど良いので、現地まで行って昼飯にしましょう。貴女へ仕事の依頼です」  カトリィヌの腹が返事をした。
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