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「――会長?聞いてますか?」
呼びかけられて俺ははたと顔をあげた。
目の前で副会長が俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「顔色が悪いですよ」
「…いや、平気だ…悪い、聞いていなかった。転入生のことだよな」
「はい。来週の月曜から一年A組に転入するそうです、本日17時にこちらに着く予定だそうですのでその時間に会長は理事長室まで来るようにと」
「…ああ」
俺は頷いてから壁掛け時計を見上げた。16時も半分を過ぎて、あと少しすれば17時になる。
俺は副会長から転入生の情報が記入された書類を受け取り、固まった。
再生紙の上の小さなインクの染み達が凍りついた俺を笑う。
この紙面には信じられないようなことが書かれている。
「会長、それ転入生ちゃんの書類?俺にも見せて」
隣で会計の明るい声が聞こえた。恐らく転入生の事を物珍しがって寄ってきたのだろう。
俺は何も言わずに会計にそれをおざなりに手渡した。
「お、結構かわいーんじゃね?ふぅん小鳥遊ちゃんっていうのか」
俺は時計を見つめたまま二人の会話を聞いていた。
もうすぐ17時。
「狙っちゃおっかな」
「やめた方がいいですよ」
「なんで」
「ほらここ。備考欄に書かれてるでしょう、この生徒は理事長の息子らしいですからおかしなことすれば即退学ですよ?」
視界には円形に並ぶ数字の羅列とその中に二本の棒とカチカチと規則的に動く細い棒が映っていた。
「へー。理事長の息子なら初等部からここ通ってそうなのに、転入ってなんか変じゃね?」
「恐らくですけど、この生徒は結構な訳あり環境ってとこでしょうね」
「もしかして隠し子だったりして」
言葉がただの雑音に変わって頭をすり抜けていく。
もうすぐ、17時、だから。
「うわっ!会長、腕!!」
突然会計の飛び上がるような大声が耳に突き刺さった。
目だけを動かしてみると副会長も会計も書記も驚いた様子で俺の腕を見ている。
「会長、腕のなんかキモイの!払って!」
「百足ですよ!」
「それ…噛む、毒…っ」
腕を持ち上げてみれば、そこにはあの百足が絡みついていた。 ああ、そういえば机の引き出しを閉めていなかったな。
ぼんやりそんなことを思っていると、百足は俺の腕をうぞうぞと這い上がり肩まで上り詰めてきた。
慌てふためく役員達の大声は何かに阻まれてよく聞こえない。
顔にまで上がってきた百足の目が俺を見つめる。
そうか、そこまで俺の精神を食い潰したいのか。
そんな目して俺を馬鹿にしてるんだろう。お前から見たら足掻く俺はさぞ滑稽だろう。
「しつこいな、お前も」
俺は呟いて百足の頭に食らいついた。
口の中でばきばきと海老の殻を砕いた時のような音がして、それは真っ二つに食いちぎられた。大量の足が顔の上で動き回るが、俺は一層力を強くしてそれの体を壊す。
百足は俺の口から逃れられずにやがて動きを鈍くさせていった。
もう出てくるな。お前を見るたびに俺は壊れていく気がしてならない。
そんなに俺を喰らいたいのなら、喰われる前に俺がお前を喰い殺す。
俺は口を大きく開け舌を伸ばすと、残った百足の体を全て口の中にいれた。
ばき、ぱき、かり。
歯を立てる度に体液が口から漏れ出した。
「う゛っ…!」
俺の喉が上下するとともに誰かのえづくような声がした。
飲み込むために上に向けていた顔を下げると、役員達の真っ青な顔が見えた。
揃いも揃って目を見開いて信じられないとでも言いたげな表情をしていた。その中には恐怖、驚愕、嫌悪。色んなものが混ざり合っている。
どうして皆してそんな、化物を見るような目で俺を見るんだろうか。
ぬるりと顎を伝う体液を拭った。手のひらで粘つくそれは緑色をしている。
ああ、これか。この色がいけないんだな。これがあるから俺が化物みたいに見えてるんだ。
大丈夫、俺の体液はちゃんと、皆と同じ色。
俺は自分の手首の皮膚を噛みちぎった。歪な歯の形を残した傷から赤い血が滲み出してくる。
ちゃんと人間の色、だから俺は何もおかしくないだろ。みんなといっしょだろ。
役員達に目を向けると会計、書記、副会長、それぞれと目が合った。
「ひ…」
副会長は俺と視線が合うや否や、指先から全身へと色を失わせて後ろに倒れた。
「ふっ、副…っ!」
書記と会計が咄嗟に背中を支えて床に頭を打つのだけは免れた。貧血かなにかだろうか。副会長は細身なので有り得そうだ。
人の体は案外脆いもので頭を打っただけで死んでしまうことだってある。
「大丈夫か…保健室、連れてってやれよ」
俺は副会長を支えた拍子に床に膝をついていた会計と書記を見下ろした。
二人は怯えた顔で俺を見ている。書記なんか大きな体が気の毒なほど震えて歯がかちかち鳴っていた。
「か、かいちょ…」
「どうしちゃったの、会長…ね、ねえ、聞いてる?」
時計を見上げる。時刻は17時前。
「ごめんな」
もう時間だ。
「俺はもう行かないと」
何があっても理事長室に行かないといけない。あの人の言う事は絶対なのだ。
副会長が倒れていていても、会計と書記が怯えていても、俺が行きたくなくても、この先に良くないことが待っているとわかっていても。
「行かないと、駄目なんだよ」
お父さんの言うことは、聞かないと。
飲み込んだ百足が腹の中で蠢いた気がした。
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