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目の前に散るのは赤い花弁。
この花は確か山茶花だ。
「お兄さん」
呼びかけられて目が覚めた。
乾いた目を擦るとそこにはいつもの蟲妖ではなくひとりの少女が立っていた。
俺は体を強ばらせて息を呑んだ。
少女の体には蔦のようなものが巻きついて足は木の根になって、片目から花が生えている。その姿はまさしく化物だ。
――――妖魔。
微睡んでいた意識が覚醒して俺は上半身を起こした。部屋を見たが蟲妖はいない。
少女は警戒心を顕にする俺に呑気に挨拶をした。
「おはよう」
話しかけてくる相手は得体のしれない妖魔。
だがそれでも、ここに来て蟲妖以外の者と会話をしたのはこれが初めてのことだった。
警戒心、恐怖心、緊張感、高揚感でかき混ぜられた心が思わず震えた。
ごくりと生唾を飲み込んだ俺に花の少女は笑いかけた。二つ結びになった髪に差された山茶花の花弁がはらりと落ちる。
「あの時、ありがとう」
「…え?」
何の話だろうか。
俺は蟲妖以外に妖魔の知り合いなどいない。
困惑する俺に花の少女は何度も自分の顔を指さした。
「私、私よ。ほら、助けてくれたでしょう」
「あ…」
その言葉に掠れていた記憶が微かに蘇った。
そうだ。この顔。服装や髪型さえ変わってはいるものの、この少女は俺が初めてここに来た時に豚の妖魔に買われかけていた子だ。
「なん、で」
体の蔦。木の根の足。片目の山茶花。
異形へと変わり果ててしまった少女を愕然と見つめた。
確かにあの時彼女は人間だった。なのにどうして妖魔の姿になってしまっているのか。
それにこんな、正気をなくしたような瞳をしていた記憶はない。目の前の彼女は本当にあの時の子なのか。
「ありがとうって、それだけ、言いたかったの」
少女は長い袖に隠れた手を振って踵を返した。
「ま、待て…!」
俺は思わず呼び止めた。
この部屋には外へ通じる扉がない。どうやって入ってきたのだろうか、窓にだって格子が嵌められていて子供が通れるほどの隙間はない。
もしも外から来たのなら少女はこの部屋の外の世界を知っていることになる。それに気づけば聞かずにはいられなかった。
立ち止まった少女の首がかくん、と後ろに倒れる。逆さまになった顔から山茶花の花弁がはらりと落ちた。目が合う。その不自然な動きに俺はぞっとした。
「こ…ここがどこだか知ってるのか?」
「しらない」
私はしらない、と少女は繰り返した。
「な、なら、ここの外は?どうやってここに来た?なんでもいい、教えてくれ…!頼む…!」
俺は動かない足を引き摺って、寝台から転げ落ちた。
床に伏せたまま少女を見上げると彼女は笑っていた。
ゆっくりと唇が動く。
「ここは、苦しくない」
「…え?」
少女は両手を大きく広げて演説のように続けた。
「ここはみんなが優しい。大切にしてもらえる、可愛がってくれる」
少女の声で心臓がどっくんと跳ね起きる。その音でずっと止まっていた血が流れ出したような気がした。
「お兄さんも、そうだよね?」
「それ、は…」
俺は彼女の言葉をすぐに否定することが出来なかった。
それはこの環境を、蟲妖の狂った愛情を、どこかで心地いいと思っている自分がいたから。
「ここでは何もがまんしなくていい、ここにいると幸せ…」
少女の笑顔が、声が、空気が気持ち悪い。
不快感が迫り上がる。
「うっ、ぉ…おえぇ゛…っ!」
俺は床にひれ伏したまま嘔吐した。
何も口にしていなかった筈の胃の腑からびちゃびちゃと何か固形物が出てきた。
俺の胃液に混じったそれらには見覚えがあった。
蜂、蜻蛉、甲虫に玉虫。その他に沢山の虫の死骸。
これらは全て俺が殺して芋虫に餌として与えた虫達じゃないのか?
「いらないもの、いっぱいでたね」
そう言って近付いて、少女が楽しげに俺の汚物に塗れた死骸を拾い上げて潰した。
くしゃ、という音と共に体液が飛んだ。
辺りに酸の不快な臭気が充満する。
「ふっ、ふふ、あは」
何が楽しいのか少女は笑い狂う。その姿はもう正常な人間の姿には見えなかった。
俺もこうなってしまうのか。いや、もうなりかけているのかもしれない。
嫌だ。嫌だ。俺は絶望に泣きながら壊れた少女に縋った。
「…もう嫌なんだ…ここから出してくれ…」
情けない泣き声をあげる俺の髪を少女の手が撫でた。
「かわいそう、お兄さんはまだ苦しいの?」
少女はかくんと首を傾けた。花弁がまた落ちる。
「私は、しんで、よかったよ」
その言葉を理解するまで少し時間がかかった。
俺が顔を上げると少女は既に背を向けていた。
「考えるのをやめて、そうしたらすぐに、楽になる」
遠ざかろうとする小さな背中が、スローモーションのようにゆっくり見えた。
「え、ま、待て…!おい、待てっ!」
手を伸ばすと彼女の体は無数の花弁へと変わって消えてしまった。
俺は愕然としながら床に散らばった赤い花弁を見つめた。
今の言葉の、意味は。
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