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「山茶花が来たのか…」
肌を這い回るような低い声。
俺の体はその声に抱き上げられ、寝台へと戻された。
あの少女もそうだが、こいつも一体どこから来るのだろうか。いつも湿った部屋の暗がりから音もなく現れる。
「…御父様…」
「そうか…あれはお前が助けた娘だったな」
山茶花とは彼女につけられた名前だろうか。
「あの子は…なんで、あんな姿に…」
「あの後誰かに買われたようだ。寄生花の種を埋め込んで観賞用の生き花として飼われている…」
蟲妖は床に落ちた赤い花弁を拾いあげた。
「…だが私の巣に入って来れるということはとうに吸い尽くされたな…」
吸い尽くされた。
「なにを…?」
「ああ…記憶だ」
「記、憶」
俺は蟲妖の言葉に唇を震わせた。寝台に膝立ちになって蟲妖の着物を握りしめて縋る。
「俺も…?俺もなのか?」
「銀竜…」
「…俺は、何を忘れてる?」
「思い出すな、お前にとって辛いものだ」
優しく肩に置かれた蟲妖の手を思い切り振り払った。
いきなり激しく動いたせいで足元がよろめく。俺は髪を掻き毟った。頭の中身の脳味噌ごと引っ掻いてぐちゃぐちゃにしてやるくらいに爪を立てた。
「ここは何だ?俺は何なんだ?どうしたら出られる?」
「何も考えるな。お前は私のものだ」
「違う!お前のじゃない…!」
俺はお前のじゃ、ない。
蟲妖の髪が一束肩を流れ落ちた。
「お前の望みを叶えているのに」
「…俺の…?」
「我等妖魔の餌は負の心。お前の中に押し込められた苦しい感情は全て私の餌になる…その代わりに我らはお前達の心の奥底の望みを叶えるのだ…。私の存在はお前の心が作り出している…」
はーはーと息を吐きながら呼吸にもならないような空気の入れ替えを繰り返した。
空気に直接当たる舌は乾いたけれど口の中は唾液が溢れ出して溢れたものが床に垂れ落ちた。
気がおかしくなる。
どうしたらいい。どうしたら終わる。この悪夢は。
俺はどうしたらこの言いようのない苦しみから開放されるのか。
「出たい、ここから出たい、帰りたい。お願い、帰らせて」
「ここからは出られない。例え出てもお前は同じことを繰り返す。絶対にここに戻ってくる…何故ならお前の魂がそれを望んでいるから」
蟻地獄に落ちた蟻はこんな絶望感なのだろうか。
這い上がっても這い上がっても砂に流されて落ちていく。穴の底には化物が口を開けて待っている。呼吸が出来ない。
蟻地獄の蟻は死んでしまうだけなのか。
「嘘だ」
いや、そんなことは無い。きっと。
「――お前がいるから」
化物さえいなければ蟻は落ちたりしない。
お前を殺せば、俺はきっと。
ぐちり。
口の中に柔らかい肉の感覚を感じる。
「っ、な…!?」
気付けば俺は蟲妖の喉元に食らいついていた。
こいつでも驚く時はあるらしい。
俺は蟲妖の頭を掴んで右手の親指で片目を潰した。
肉の潰れる音がした。指に垂れる血は赤ではなく緑色だ。
そのまま力づくで床に押し倒して深く深く指を押し込んだ。脳まで届けばこいつだってきっと死ぬ。脳があればの話だが。
俺は倒れ込んだ蟲妖の喉元に犬のように喰らいついてぶちぶちと喉元を裂いた。お情け程度の鋭さの犬歯でも多少は役に立つらしい。
そして指を首の裂け間に突っ込んでその肉を更に裂いた。
緑色の体液が噴水のように吹き出した。
足が痛む。ごつっと骨に直接床の固さが伝わってくる。
きっと無理に動かしたせいで砕けた骨が足の皮膚を突き破ったのだろう。それでも俺は止まらなかった。
蟲妖は叫ばない、痛みを感じないのだろうか。それとも喉をやられて声が出ないのかもしれない。
蟲妖の手が震えながら動き、持ち上がる。
――殺される。
そう思った俺は噛み付く力を強めた。
「…ぎ、ん…」
だが、その手は俺を攻撃することはなくそのままゆっくりと頭を撫でた。
俺は目を見開き思わず口を離した。
同時に声にもならないような声で呟いた蟲妖の手がぱたりと落ちた。そのままびくっびくっと何度か身体が跳ねていたが蟲妖はやがて動かなくなった。
「……やった…のか…?」
俺は呟いて口元を伝うどろりとした粘度がある体液を着物で拭った。
蟲妖は動かない。俺は恐る恐る顔をのぞき見た。見開いた目は虚空を見つめている。
生き物を殺したというのに意外にも何も感じない。
まるで羽虫を一匹潰した程度のそんな感覚だ。
蟲妖は何故か抵抗をしなかった。その気になれば簡単に俺を殺せただろうに。
そうしなかったのは最後の最後まで俺を息子として愛しているということなのだろうか。
俺はへたりこみながら動かない蟲妖を見つめた。
動かない。俺が殺したのだから当然だ。
仰向けに倒れたそれを見ていると何だかとても嫌なことを思い出しそうになった。とても泣きたくなる。
「お父さん…」
ぽつりと零れた言葉にぞっとした。
何がお父さんだ。こんな化物に情なんて欠片もない筈だ。
俺は手を伸ばして蟲妖の顔に巻かれた包帯を引きちぎった。
百足のような顎が見える。こいつはこんなにもおぞましい妖魔だ。お父さんじゃない。
「…あ、れ……」
だが目元と顎しか知らなかった蟲妖の顔は、片目が潰れてはいるもののよく見ると整っていて少し驚いた。
じっと食い入るように蟲妖の死に顔を見つめる。この顔を俺はずっと昔から知っているような気がした。
「んなわけねえよな」
いつまでも見ているとこいつがまた動き出しそうで恐ろしくなった。
とにかくここから出よう。そこからまた考えよう。
大丈夫、俺は正気だ。狂ってなんかいない。
俺は狂っていない。
どさ。
「…え?」
そうして立ち上がろうとして、俺は床に倒れ込んだ。
足が動かない。立てない。
蟲妖の毒を打ち込んだわけでもないに、骨の砕けた痛みすら感じない。
俺の視界の端で、何かが蠢く。
俺は自分の足を見た。
「なにこれ」
俺の足がない。
体の腰から下が違うものに変貌している。
緑色で気持ちの悪い模様の付いた、肥太ってぶよぶよした何か。それが俺のへそから下と融合している。
俺が足を動かそうと意識すればそのぶよぶよしたものが這うように蠢いた。
嘘だ。
これは、虫の…。
「や、やだ…」
意識をするな。これは俺の体じゃない。違う。
狂気に呑まれるな。
「俺は狂ってない…っ」
嫌だ。嫌だ、嫌だ。虫になんかなりたくない。
俺は爪を立ててぶよぶよした下半身を引き裂いた。鋭い痛みが走って分厚い肉が裂け、体液がどろどろと漏れ出した。
「あぁ、あ」
顔を掻き毟る。流れる血は緑色だった。
嫌だ、俺は虫じゃない。
俺は……俺は…。
「ぁ、ぁ、あれ、あはっ…は…」
自分の名前が思い出せ、ない。
「ああ゛ぁあ゛あああああっ!!!!」
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