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ふと目が覚めると、俺はベッドの上にいた。
「――っ!」
微睡んでいた頭が一気に冷え、覚醒する。
勢いよく起き上がれば体もシーツも冷や汗でぐっしょり濡れていた。
「はっ…は…」
あちらこちらに目線を慌ただしくさ迷わせれば、そこは見覚えのある部屋。慣れ親しんだ匂い。俺の寮部屋だった。
何が起こっているのか理解できなかった。
「あ、ぇ、」
はっとして布団の中に手を突っ込み自分の下半身に触れた。張った皮膚とその中に埋まった骨の感触がする。
生唾を飲み震える手で布団を捲りあげた。そこには人間の足があった。
足。俺の、足だ。小さく折り畳まれていない。痛くない。虫になってもいない。正常な俺の足。
俺はベッドから転げ降りるとすぐ傍にある机の引き出しを開けた。
掘るように中をひっくり返して目当ての物を探す。ばらばらとペンやマーカー、紙が落ちていく。
俺は目当てのカッターを取り出すと銀色の刃を出して指を切りつけた。
ちかっとした熱い痛みがすぐに鈍い痛みに変わっていき、裂け目から雫が垂れた。
その色は緑ではなく、赤色だ。
「あ」
それを見た途端に足から力が抜け、冷たいフローリングにへたり込んだ。
緊張の糸がぷつりと切れる。するとすぐに股の間から温かいものが流れて俺を中心に水たまりを作った。
「…最悪…」
呟いたが今はすぐに立って片す気にはなれなかった。
顔を上に向ける。壁に取り付けられた時計は午前4時過ぎを指していた。
この部屋には天蓋のついた絹布団の寝台も、格子のつけられた窓も、用途の分からない玩具の山も、甘ったるい香の匂いも何もない。勿論蟲妖だっていない。
あれは一体何だったのだろう。
夢だったのだろうか。それにしては現実味が強すぎた。
俺にとっては、今、この瞬間の方が夢のように感じる。
「俺の、なまえ」
ぼんやりとした頭で呟いた。
「隆太」
名前が言える。覚えている。ようやく自我が戻ってきたような気がした。
あれは明晰夢?白昼夢?
両腕で自分の体を抱いて震える。生暖かかった液体は既に冷えて俺の体温を削いでいった。
◆
掃除してシャワーを浴び終わるころには既に朝になって空が明るくなっていた。
物凄く久しぶりに見た陽の光は俺の目を少し痛ませた。
俺はあのことを全て夢だと割り切ることにした。全部全部俺の悪い夢、妄想だ。
最近生徒会の仕事で疲れていたから、きっとそのせいだ。
生徒会といえばこの間、副会長が顧問から聞いた新しく来る転入生の件はどうなっているのだろう。
そろそろ名前や学年、クラスなどわかってもいい頃だが今日くらいに詳細説明が来るだろうか。
こんな季節外れの時期に転入とはよほどの訳ありだろう。面倒な生徒じゃないといいが。
俺はタオルで髪を拭きながらリモコンを持って電源を付けた。
こんな山奥の全寮制高校にはテレビかネットくらいしか娯楽はない。
早朝なのでニュースしかやっていないが無音よりはましだ。
冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して口に含む。
そうして何気なしに画面を見つめていると、『小学生女児がマンションから飛び降り自殺。家庭間での虐待やいじめが原因か。相次ぐ自殺問題』という嫌なテロップが画面を流れ出した。
画面の中の女性アナウンサーがニュースを読み上げていく。
<亡くなったのは○○県○○市内に住む本永真美ちゃん10歳で…――>
気分の落ち込むニュースだ。付けなければ良かった。
そう思いリモコンの電源ボタンを押そうした時、亡くなったという件の少女の顔写真が公開された。
それを目にした途端、手の中からペットボトルが抜け落ちた。
どしゃりと音を立てて落ちたペットボトルは床に中身の冷水を散乱させた。
そんな事も気に留めずに俺は画面を食い入るように見つめた。
画面いっぱいに写された少女の顔には見覚えがあった。
「…山茶花?」
画面の中で笑っている女の子は、あの子だった。俺があの世界で会った妖魔に変わった少女。
<どう思われますか――さん…>
<はい。少し前の男性が工場で焼身自殺をした事件といいどうしてこういった問題は減らないのでしょう、本当に悔やまれ…―>
写真は消え画面が切り替わり、座った数人の男女が重苦しい雰囲気のまま語り合う。
アナウンサーに話題を振られた何かの専門家らしい男性のしわがれた声は俺の耳を通り抜けていく。
嘘だろう。だって、だっ、て。あの子はちゃんと動いて話して…。
――私は、しんで、よかったよ。
あの言葉が蘇る。
「自殺…?」
呟いてから現実を強く視界に叩きつけられた気がした。
もう画面の中では次のニュースが読まれ出していた。
山茶花は死んでいる。自殺したのだ。彼女の本当の名前は真美。
「…真、実…はは、はははっ…」
名前を呟いた途端、無性に笑いがこみ上げてきた。
名の通りだ。向こうの世界でもこちらの世界でも彼女は俺に知りたくない真実を突きつけてくる。
ああ、気分が悪い。
俺は口を押さえてすぐさまトイレに駆け込んだ。
胃の中のものを便器にぶちまけてから洗面所で口をゆすいだ。
洗面所の鏡を見る。いつもの俺の顔だが酷く青い。
「…俺も、死んでるのか?」
俺は鏡面に手をついて中の自分に問いかけた。
あの世界は夢なんかじゃない。
あそこは―――自分を殺した人間が行き着く場所だ。
その推測はどこか確信に近いものがあった。
吊るされた籠の中の人間達の何の希望もない目がそれを物語っているような気がした。
それにあの時マミが言ったのだ。真実が。
死んで良かった―――と。
そして俺もあの世界に行っていた…考えたくはないが、ひとつの疑念が浮き上がる。
「俺は自殺した…?」
じゃあ今、鏡に映るこれは誰なんだろう。
俺は自分の左胸に手を当てた。とくん、とくんと音が聞こえた。
顔の肌を触る。温かい。俺は生きている。
じゃあ何故あの世界に行ったのか。死んだ人間しか行き着けない、あの場所は正常じゃない。
それでも自分がどうやって死んだのか、何故死んだのか思い出せない。
体に目立った傷はないし、生憎睡眠薬や毒なんてものも持ち合わせていない。稀に聞く臨死体験だろうか。いや、そういう感じでもなかった。
「俺は…何なんだ」
もしかして俺はまだ向こうにいてこちらの世界の夢をみているのだろうか。
いや、それともあちらの世界が全て悪い夢だったのかもしれない。
俺はどっちに生きている?いや、死んでいるのか?
思考がぐるぐる回る。視界が歪む。
「ぉ、げぇっ」
洗面台に再び吐き出した。
吐瀉物の中には何も無い。虫もいない。胃液だけだ。
喉が焼けるような酸の味には不快感が残った。
ぜえぜえと呼吸をしながら、ふと俺は胡蝶の夢という話を思い出した。
夢か現か、あっちとこっち、どちらが本当の俺なのか。あの話はこんなホラーじみた状況ではなかったような気がするけれど。
俺は蛇口を捻って冷たい水を両手で掬い顔にぶちまけた。
とにかく生きているのだからいいじゃないか。そう考えることにしよう。あちらのことは忘れよう。
乱暴にハンドタオルを引っ掴んで顔に押し当て水滴を拭った。そうしてふと鏡を見上げた時。
かさかさ。
何かの音がした。
「、ひッ―――!」
百足だ。
そこには大きな百足がいて鏡の上を這っていた。
見上げる俺に、百足は頭を上げてこちらに顔を向けた。触覚が動く。俺を見ている。
百足がこちらに近付いてこようとする気配を感じ後ずさる。ぞあ、と全身が泡立ったのは恐怖か嫌悪か。
俺はタオルで百足を強く払い除けた。百足が落ちた場所には緑色の体液が付着していた。
「…蟲妖…?」
何故だかその名前を口に出していた。はっとした俺は顔を押さえて蹲ると笑った。
「あは、は…ははっ」
床に落ちてのたうち回る百足は何だか滑稽だった。
「俺を連れ戻しにでも来たのか…」
そんな虫けらのなりになってまで。
「戻って、たまるかよ」
俺は百足を拳を打ち付けた。
何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殴り潰した。拳から滲み出た血と百足の体液が四方に飛び散る。
ここはお前の世界じゃない。お前はあちら側の存在だ。こっちではお前はただの虫けら。殺してやる。何度来たって殺してやる。
お前なんか必要ない。
こっちの世界にはいるんだ、偽物じゃない本当のお父さんが。
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