虫籠の銀竜草

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青い空に眩しい程の日差し。生徒の話し声、周りを歩くのは全て同じ人間だ。 正常な世界が俺に戻ってきた。 普通に授業を受け、食事をして、何事もなく一日が過ぎていく。まるであの事は本当に夢だったかのように一日が一つの歪みもなく流れていった。 今日一日をあまりにも平穏に過ごして、俺はやはり死んでなんかいなかったんじゃないかとさえ思う。 いや、きっとそうだ。 「ごめんね、荷物運び手伝ってくれて助かった。あ、そのダンボールその机に置いてくれていいよ」 ほこり臭い理科準備室の中で、眼鏡をかけた壮年の生物教師が俺に言った。 時刻は既に四時過ぎ。下校をする生徒たちの声が雑踏になってどこからか聞こえてきていた。 俺は頷いて言われた通り何かの機材が入ったダンボールを机上に置いた。 「そう言えば遠藤君、この間の小テスト満点だったよ。君は本当に凄いなあ、感心するよ」 「この学校の生徒会長ですから…それぐらいは出来ないと、当然のことです」 「中々そう思っても出来ないものなんだけど…ま、とにかく有難うね」 俺は会釈をして準備室から出ようとドアに手を伸ばして、その手を止めた。 「あの、先生」 「ん?」 俺は顔だけを振り向かせて教師に問うた。 「銀竜草って、どんな植物ですか?」 「銀竜草?ああ、あれはちょっと変わった花だよ」 機材を段ボール箱から取り出していた教師は顔を上げた。 「葉緑素が存在しなくて、光合成をしないんだよ。だから茎も葉も花も真っ白。面白いでしょ」 「…それで生きれるんですか」 「腐生植物だから、森林の湿った影地とかで菌から養分を吸って生きてるんだ。寧ろこの花は日光がガンガン当たるところにはあんまり生えてないんじゃないかな」 教師は窓の外に目を向けて顎に手を当てた。 「うちの学園の周りの山になら生えてるかもしれないよ。変わった見た目だからすぐわかるさ、銀竜草の別名は…――」 ユウレイタケって言うくらいだしね。 「ふっ…、ふふ、はっ」 そう言った生物教師の言葉に俺は笑いをこぼした。 教師は突然笑い出した俺に戸惑い、眼鏡のレンズの奥で気まずそうに視線をさ迷わせた。 「…えっ、と…何か面白かった?」 蟲妖が何を思って俺にそう名付けたのかは知らない。 それでもセンスは最悪だ。とても人につける名前じゃない。俺がもう人として生きていけないとでも思っているのだろうか。 生憎だが異常なのはお前と、あの世界に残された人間だけだ。 「いいえ…すみません。有難う御座いました。失礼します」 理科準備室を後にして廊下を歩く。 廊下の窓からは暖かさのある夕刻の光が差し込んでいた。光も何もない湿った紫色の空とは違う。俺は自分の手を胸元にまで持ち上げて、そこに貼られた絆創膏を見た。 ベージュ色のテープに挟まれたガーゼには赤黒い血が滲んでいた。今朝の百足の体液は洗い流して死骸はトイレに捨てた。 「あ、会長」 ぼんやりそれを見ていると、前方から見知った顔の生徒が歩いてきた。 生徒会役員の副会長だ。彼は片手に何かの書類の入ったクリアファイルを持っていた。 「ここに居たんですね。丁度良かったです、今から生徒会室に来て頂いても?」 「ああ」 俺は了承の返事を返し拳の傷に触れた。じくりとした痛みがある。 俺もこの世界も、全て正常だ。 ◆ 生徒会室に入ると既に俺以外の役員は勢ぞろいしていた。 いつもの顔ぶれと光景だ。それを見て今日は心底ほっとした。 生徒会長用の椅子に腰掛けてノートパソコンの電源ボタンを押した。すぐ目に入る所に置かれた卓上カレンダーを取って、引き出しを開け蛍光ペンを取り出した。 書類の期限などを忘れないためにカレンダーには毎日印をつけるのが俺の習慣になっている。 ところが、何故だか今日の日付の所には既に印が書き込まれていた。今日はまだ書いていない筈だ。俺は眉間に皺を寄せて訝しんだ。 「…おい、俺のカレンダーに勝手に印付けたの誰だ。こんな悪戯すんの会計か?」 名指しをされた会計はボールペンを片手に俺を見てきょと、と目を丸くしていた。 「え~俺そんなん知らないけど?」 「嘘つくな」 「嘘じゃないって!流石に会長の私物は触んないし、そんな悪戯して何の意味あんのって感じだし」 「それも…そうだな」 会計の言うことは最もで、俺もそれには納得した。 悪戯にしたってこんな意味のないことは誰もしない。首を傾げる俺に副会長が言った。 「無意識に自分で付けたのではないですか?」 俺は改めてカレンダーに視線を移した。 確かに印のつけ方には俺の筆跡の癖が出ている。ピンクの蛍光ペンの掠れ具合も他の印と全く同じだ。 いや、でも、俺は無意識に間違えるなんてミスはしない。それに今日生徒会室に入ったのは今が初めてなのに。 今、今日が、初めて…。 ――本当に? 言い様のない違和感が俺を襲う。おかしな汗が額に滲んだ。 「今日って…金曜だよな?」 「はい、そうですよ…あ、忘れないうちに印鑑をお願いしていいですか?委員会のなんですけれど、結構急ぎみたいで」 俺が聞くと副会長は頷いて、クリアファイルから書類を取り出した。 「あ、ああ…」 それを受け取って書面を見た時、指先に熱さと冷たさが混じったような緊張感が走った。 生徒会長が記入するはずの欄に端にぽつんと押された赤い朱肉の色。 今渡された筈の書類に、既に俺の印鑑が押してあった。 「押して、あるぞ」 その声は少し震えて俺の口から零れ出た。 「えっ?あれ本当だ。何で?今貰ってきた書類なのに、あれ?」 不可解な現象に混乱する副会長を見ながら、俺はひくりと口端が引き攣るのを感じていた。 印のつけられた今日のカレンダー。既に押された印鑑。向こうの世界で度々感じた既視感と、虫食い穴の様に所々抜け落ちた記憶の違和感。 必死に現状を肯定しようとする自分と、どうしても疑惑を拭いされない自分の感情が頭の中で混ざり合って眩暈がする。 今日は本当に今日? 俺は、今日を既に知っているんじゃないのか。向こうの世界で無くしてしまった記憶は今日のことなんじゃないのか。 俺の見ている世界は本当の今日?本当に元の世界? ここは現実なのか、それとも俺の狂った妄想なのか。嫌だ、違う、俺は狂ってない。 かさかさ。 半開きになった机の引き出しから何かが這いずる音がする。その中から出てきたのはあの百足。 流して捨てた筈なのに。 「ッ…!!」 思わず飛び出そうになる悲鳴を飲み込んだ。 長い触角が動き、無数の足が蠢いている。隙間から顎のついた顔がのぞき、俺を見た。 その時、あのねとりとした声が頭の中でこだました。 ――お前は同じことを繰り返す。 う、嘘だ。ここは元の世界だ。 ――繰り返す。 俺は狂ってない。現実で生きてる。 ――銀竜。 俺を呼ぶな。俺は、ここは、正常の、はず。 「ところで会長、転入生の件なんですけれど」 副会長の言葉に何故だか全身の肌が嫌悪で粟立った。
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