206人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
ふと目が覚めると、俺は暗い籠の中にいた。
「な…!?」
微睡んでいた頭が一気に冷え、覚醒する。
立ち上がろうとすれば宙から吊るされているらしい籠がぐらりと揺れ、肝が冷えた。
「う、わっ」
俺は動きを止めて座り込み、反射的に下を覗き見る。
「…っ!!」
高い。
籠の下は大きな穴になっていて、穴の底はここからでは見えないほど深く暗い。
体に纒わり付く空気は生暖かく湿っていて、薄気味悪い。
まるで大きな怪物が口を開けて待ち構えているようだ。
「お目覚めか?」
このまま落ちるのではないかと顔を青くさせて震える俺に、隣りからなんとも呑気な男の声がかけられた。
肩を跳ねさせ伺うように顔を向けると、俺と同じ籠の中に工場の作業服のようなものを着た中年の男がいてこちらを見ていた。
「え…?」
「ははっ、わけわかんねえってツラしてんな」
それもそうだよな、と男は笑いながら煙草を取り出す。
俺は隣の籠の中でどっかりと胡座をかく男を呆然と見つめた。
「お前高校生?ライター持ってねえか」
「…ない…」
「なんだ真面目くんかよ」
「あ、あんたは…?ここは…?」
からからに乾いてしまった喉で必死に振り絞った声は掠れていた。
相当情けない顔をしているようで男はなんとも可笑しそうに笑っている。
「ここがどこかは知らねえけどな、ま、このおどろおどろしい感じは地獄とかじゃねえのか?俺達はここではこうやって吊るされて化物の為の売り物になってんだよ」
「な、何言って…」
男の言っている意味が全くわからない。
「お前自分の名前覚えてるか?」
問いかけられた言葉に俺はぼんやりした記憶を暗中模索をするように遡った。
俺の、名前。確か名前は…。
「り、隆太…遠藤隆太」
自分の名前を口にした途端、洪水のように記憶が蘇る。
そうだ。遠藤隆太、歳は17歳で、日本という国に住んで、今は学校という所にいて…。
そこで、何かとても辛い思いをした気がする。
自分の居場所を無くしたような、そんな思いを。
「駄目だ、うまく思い出せない…」
「フルネーム言えりゃ大したもんだ、ここに来て名前もすっかり忘れちまってるやつなんざザラだからな」
「忘れる…?」
「ああ、俺は結構長いことこうしてるけど自分の事をしっかり覚えてるやつに会ったことねえな」
顔を上げて辺りを見渡せば、先程までは気付かなかったが俺たち以外にもいくつもの黒い籠が鎖で吊るされていた。
沢山の老若男女の人間がその中に閉じ込められている。
虚ろな目をしたもの、泣いているもの、発狂しているもの、それぞれだ。
「ここにいる奴は皆同じだ。気付いたら籠の中にいる」
「どうしてそんなことに…」
「さあな、ただ分かるのはここにいる人間は皆何かしら絶望してる」
絶望。
何故かその言葉は、頭が空っぽの俺の中にすとんと落ちてきた。
そうだ、俺は…何かに絶望していた。
培ってきたものを根こそぎ奪われて、誰ひとりとして味方はいない、どんなに頑張ってもむくわれない。
そんな自分に絶望していた。
「あとはひっきりなしに化物みてえな客が来て好きな人間を金で買っていく」
見てみろ、と男が顎でさした方を見る。
目を凝らすと下に開いている大きな穴に沿うように欄干がぐるりと渡されていて回廊のように足場ができていることに気が付いた。
その先に、何かがいる。
「ひ…!」
その存在がわかるや否や俺は悲鳴を上げて後退した。
背中に柵があたりガシャンと無機質な音を立てる。
そこには明らかに人ではない異形のものが何人も立っていた。
「あいつらに買われてくんだ」
「な、なんで…」
「知らん、でも帰ってきた奴はいねえな」
男の言葉が更に恐怖を煽り俺はガチガチと歯を鳴らした。
「あ、あんた、何でそんなに知ってんだ…」
「俺は所謂売れ残りってやつだな、長くここにいるけど誰にも買われてねえ。好き好んでおっさん買うやつはいねえってことよ、虚しいな」
「どうやったら、逃げれるんだ…!?」
「そんなこと出来たら俺はとっくに逃げてるよ」
諦めたように笑う男を見て俺は歯ぎしりをした。
どうして、どうしてこんな目に。
「いやああぁっ!!」
項垂れていた俺の耳に、甲高い悲鳴が響いた。
顔を上げて下を見れば欄干の先に下ろされたひとつの籠から誰かが引き摺り出されている。
俺よりも全然小さな女の子だ。
「あーあー可哀想に。良くねえ客に当たったな、まだ子供じゃねえか」
隣りの男は他人事のように呟いて腕を組んだ。
固唾を飲んで見ていると、少女を買ったらしい豚の頭をした化物が中華包丁のような刃物を取り出していた。
俺の指先から体温が無くなっていく。
「こ、こんなことって…」
何故隣りの男は平然としていられるのか。
こんな異常な光景に。
「きゃあああぁっ!!」
豚頭の化物は掌におさまるほどの小さな靴を取り出すと、刃物を泣き叫ぶ少女の爪先に当てた。
どうやら指を切り落とすつもりらしい。
あまりのことに俺は思わず声を出してしまった。
「や、やめろッ!!」
ぐるり、と化物の首が俺の方へ向く。
心臓が口から出るのではというほど飛び跳ね、静まり返った中でも隣りの男の知らねえぞという声だけが聞こえた。
化物は俺を暫く見つめると、隣に控えていた黒衣のような風貌のものに何かを話し出した。
「!」
黒衣が片手を上にあげたと思った途端、鳥籠を吊るす鎖が大きな金属の音を立てて勢いよく下に下がって行く。
落ちる。
俺は声にならない悲鳴をあげたが、籠は穴に落ちること無く欄干の目の前で止まった。
籠はそのまま移動すると、回廊のような足場に下ろされる。
「はっ…は…」
凄い量の冷や汗をかきながら俺は顔を上げた。
化物が俺を見ている。
どくっ、どくっ、と全身に流れる血が騒ぎ立てる。
「出ろ」
黒衣が籠の鍵を開け、俺の襟首を掴んだ。
中から出された俺は体を押さえつけられ床に這い蹲らされる。
「顔を見せい」
豚は刃物を俺の顎に当て上を向かせた。
「ふむ、まだ小僧か」
豚はしゃがれた声をあげて臭い顔を近づけた。
「だが器量は良いな。体は獣の餌にして、頭と陰茎は剥製にでもするか」
ぞわ、と体の肌が粟立つ。
恐ろしい発言に声が出ないほど怯える俺を豚はにたりと可笑しそうに笑った。
「暴れんように今手足を切り落としておこう」
全身の体温が無くなって手首にあてがわれた刃物の感触が妙に冷たく感じた。
思わず目を固く閉じたとき。
「その小僧は私が揚げたい」
低くじっとりと這うような声が聞こえ、豚の後ろから一人の男が歩いてきた。
顔に包帯を巻き目元だけを出した男には額に長い角のようなものが二本生えていて、こいつも化物だということを顕著に表していた。
「蟲妖様…」
「しゃ、しゃしゃり出るでない蟲妖!これはわしが先に買ったのだ!!いくらお主と言えど譲らぬぞ!」
黒衣と豚が揃って狼狽え、チュウヨウと呼ばれた包帯男の立場が高いものなのだと言うことが何となくわかった。
「其奴の倍支払う、私に寄越せ」
包帯男は黒衣に重たそうな袋を手渡した。
黒衣は深々と頭を下げると俺を押さえつけていた手を離す。
包帯男が身を屈ませて俺の頬を冷たい手で撫でた。
「ひ…」
「怯えることはない、私はそこな豚のようにお前を痛めつけることはしない。さあ、おいで」
包帯男は俺を軽々担ぎ上げると歩き出した。
固まってしまった俺がされるがままに呆然と男の背を見つめていると、豚の怒声が後ろからへばりついてくる。
「待て、蟲妖っ…!」
どす。
何かが豚の首に突き刺さり、嫌な音を立てた。
包帯男の黒い長衣の下から飛び出た蠍の尾とも蜂の針とも取れるようなものが豚を貫いていた。
喉を押さえながら豚は苦悶の表情をしていた。
「かっ…ちゅ、蟲妖…貴様っ…」
「纏足趣味の豚が騒々しい…蠱毒の力を持つ私に歯向かおうなど笑止千万」
「ああ、あ゛、ぎゃああぁッ!!」
血を吐き出し悶え苦しむ豚の腹がボコボコと蠢いたと思えば、大きな百足のような虫が皮膚を突き破り飛び出した。
「―――っ!!」
その姿を見てとうとう俺の腹の底が決壊した。
しょろしょろと小さな音を立てて生暖かい水が足を伝って行く。
「ん…?」
「うあ、あ…」
震えながら小便を漏らす俺はとんでもなく惨めだ。
包帯男はそんな俺の背をあやすように撫でると一度肩から下ろした。
「どうした、恐ろしかったのか?良い良い。帰ったら湯浴みをさせてやろうな」
着ていた着物の上衣を脱いで俺の腰に巻き付けた男は、今度は横抱きをして抱えた。
まるで赤ん坊の世話でもするように俺を見つめる。
「お前は私が理想として思い描いていた子供に瓜二つだ」
「こ、こど、…?」
「私は私だけの子が欲しいのだ。だが子を成すために交わったところで相手は皆腹の中に毒虫を孕んで死ぬばかり」
男は包帯越しの唇を俺の口に押し当てた。
「お前は私の愛子となって私を慰めるためだけに生きておくれ。名前は…そうだな、銀竜草…銀竜にしよう」
「ぃ、」
「お前の望むものは全部あげよう、だから逃げるんじゃないよ」
逃げたら虫の餌にしてしまうからね。
気が触れているとしか思えない発言に、俺は絶望しながら体の力を抜く。
籠の中の男の言う通り、ここは絶望した者が堕ちる地獄なのかもしれない。
そう思い、俺の意識はそこで途絶えてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!