感情マーケット

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中学生から五十代の女性まで、いろんな年齢層の女性が大勢、部屋に集まっている。その中に鴻上蓮子(25)もいる。蓮子は「こんなに多くの人が感じたいんだなぁ。妊娠って本能かなぁ」とぼんやり考えていた。蓮子はグレーのセーターにチェックのスカート姿。中肉中背で目立つような容姿ではない。ここは沖田精神病院の一室。集まったメンバーの目的は妊娠・出産に関する感情を味わうことである。 2080年の日本では蓮子たちの世代で自然妊娠をして出産に至るカップルは本当に少ない。多くのカップルは卵子と精子だけを取り出し、その後は人工知能が管理する保育器に受精卵を預けて育てさせる。厳しい検査を通り抜けた細胞だけが赤ちゃんとなり出てくることが出来る。すると、子どもを持つ女性の中にも「妊娠・出産」というものに対して知りたいという欲求や母として分娩したかったなどという願望が巻きおこった。もちろん蓮子のような縁のない人間も興味がないわけではない。最初、これは「妊娠・出産」を仮想現実で体験してもらえばいいということになったが体験者の反応はイマイチであった。女性が欲しかったのは「感情」であった。妊娠したと知った時の喜びや不安と出産のときの充実感と緊張を味わいたいのだ。上の世代の話やドラマなどではだめで実際に感じたいと思うのだ。これを可能にしたのが体験と感情をほぼ切り離し、感情だけを取り出すという方法である。今日はこの為の手術の説明会だ。沖田正和(50)は動画や実際の器具を見せる。耳の中の一部に電極を入れて大脳まで通す事、その後は太ミミズのように這う機械を耳に入れ感情を抜き取り、感情が欲しい相手に渡せることなどを説明している。この機械を沖田は『イット』と呼んだ。『イット』が綺麗な黄色のせいで気持ち悪さを覚えながらも、蓮子はピアニストとして聴覚に異変がおきなければ是非やりたいなぁと思った。このような耳の中に装置をいれるようなことは蓮子の世代から下ではみんなやっている。仮想現実で暮らすためである。日本でも世界でも現実の世界で直に体験できることはかなり貴重な事になった。例えば子どもたちの多くは仮想現実の保育園に通い、仮想現実の小学校に進んで行く。大人の中にも仮想現実の世界で働くものも多い。現実の世界では2040年ごろから起こっていた異常気象や原子力発電所の事故が重なり、建物の外には長時間いられない環境が広がっている。というわけで2040年にはすでに大人であった世代は比較的長生きでき健康であるが、それより下の世代は短命であり、遺伝子の疾患があるものが多かった。蓮子も骨がもろいという病気を抱えて、コルセットを巻き薬で封じ込めてなんとか生活を送っている一人である。遺伝子の疾患だけはどうしようもない。友人の中には何度も受精を試みて失敗しているものもいたが蓮子は子どもを持つつもりはなかった。しかし、感情だけでも味わえるなら、とここに居るのだ。 いよいよ、他人の感情である妊娠・出産の喜びを味わえるときが蓮子にやってきた。沖田の指示に従い革張りのソファベッドに横たわる。沖田は蓮子に黒色の『イット』を見せる。『イット』はクネクネと動いている。 「あなたの『イット』です。今はある女性の妊娠の喜び・感動を入れていますが、この後はご自身の感情を取り出して逆に売ることもできます。ご自分でいれてみてください」 「はい」 蓮子は蠢く『イット』をそっと受け取り右の耳に近づける。『イット』は勝手に耳の穴に侵入を開始する。痛みもないし、別に怖くもない。蓮子は感情に集中するために目を閉じる。  蓮子は圧倒的な喜びと不安となにか温かい気持ちと体のだるさを感じ始める。これが妊娠したときの感情なのか? 検証するすべもないが……。 目を閉じたままの蓮子に恍惚とした表情が浮かび始める。  三か月後。煙草の煙がうっすらと広がるバーで蓮子はピアノで「ラ・カンパネラ」を弾いている。心に悲しく、甘く、苦しく、美しく突き刺さるような演奏に満席に近いバーの客たちは小さく震える。その中にいる森田志津子(112)も例外ではない。蓮子の演奏は『イット』の妊娠・出産の感情を味わってから特別になにも変わってないが、演奏している蓮子自身は変化しているように思う。 蓮子は演奏を終え、カウンターで一人カクテルを飲んでいると平井渉(40)と藤井陽奈(28)がバーに入ってきたのが見えた。 『イット』するより少し前に蓮子は平井に振られた。平井はすごく苦しそうな顔をして 「ごめん。わかれよう」 「何で?」 「好きな人ができて……」 「それって、陽奈さん?」 「うん」 あっさりと、別れ話をしてきた平井。 陽奈のような女に平井を取られるなんてとは蓮子は思わなかった。陽奈のステージ用の帽子を作る時に平井の事を紹介したのだが、その時に二人につながりができそうだとうっすら感じとっていた。蓮子は無力であった。当り前である。他者をあやつることなどできない。平井が作った帽子をかぶりバイオリンを弾く陽奈は絵になっていた。 蓮子がグラスを空にして席を立とうとしていると志津子が蓮子の右隣に座り話しかける。 「ピアノ、素敵でしたわ」 「ありがとうございます」 「なんだか……元気がないわね。演奏すると疲れるの?」 「そうですね……色々」 「あの……『イット』ってご存知かしら?」 「えぇ。これですよね?」 蓮子はハンドバッグからケースに入っていて今は大人しくしている『イット』を見せる。 志津子は微笑みながら、蓮子に話しかける。 「もし、今の感情を持て余していて不要ならこのおばあちゃんに売らない?」 「こんな気持ちを買うっていうんですか?」 「あら、やっぱり苦痛なのね。私、買うわよ。あなたは心を掃除したらいいのよ」 「私のこれは……ちょっと前に彼氏に振られて、どんよりしているんです。よくある話ですよね。知り合いと彼氏が付き合ってしまったっていう。こんな気持ち味わいたいんですか?」 志津子は蓮子のいう事を聞くとキラキラした目で蓮子を見つめる。 「あぁ、そういうの! いいわねぇ。あなたみたい人が感じる恋愛がらみのどんより(、、、、)なら私、買いたい!」 「……物好きなんですね」 「どうかしら? 譲ってもらえない?」 「今日会ったところで、そんな急には……」 蓮子は志津子のそのキラキラした眼差しが怖くて、身をのけぞっていた。 「うーん、そうよね。連絡先だけ交換しましょう。お願い」 「分かりました」 蓮子はとりあえずこの場を去りたくて連絡先を交換した。  翌日のお昼。蓮子はピアノのレッスンのため辰巳ヒロト(17)の指導を自宅で行っていた。蓮子の部屋は紅葉のきれいな絵が飾ってある。昔の日本人がこぞって秋には出かけ赤くなった葉をみていたというのを知り、蓮子はインテリアなど凝らない性格だが、そんな風景を部屋に飾ってみたくなったのだ。 ヒロトがベートーベンの『悲愴』を練習しているが、急にやめてしまう。ヒロトは痩せ気味で筋肉がほとんどないような体つきである。 「先生、僕ダメです」 「そんなことはないわよ。今日はいい音出ていたし」 「僕……今、苦しくて。『イット』してこんなに辛いの初めてで」 「何をもらったの?」 「恋って何か知りたくて、不倫したことのある女性からその時の感情をもらったんです。 もう、けっこうなお婆ちゃんのようでしたけどね、その人。本当に焦げ付きそうな感情なんですよ」 「なんで、そんな他人の感情を? というか、自分で恋しなさいよ」 「自分で何てできませんよ。昔の人みたいには……だから、芸術に求めるんです」 「あらら、そう……」 蓮子はヒロトの気持ちも分かる。経験したくないけれど、感情だけ味わいたいということだろう。蓮子は黙ってヒロトを見つめる。 ヒロトはモジモジとしながら、 「なんか、報われない辛い恋を味わえばピアノに生かせそうな気がして」 「はぁ。まあね。他人の感情でも感じられれば生かせるかもだけど。そうだ! 辛いなら、『イット』で取ればいいんじゃないの?」 「責任があるじゃあないですか? こんなことになった」 「ヒロト君は不倫の苦しみの感情をもらっただけなの。何を責任まで感じているのよ」 「……そうですよね。先生、この前みたいに生きる力湧くような感情ください」 「うーん。そうね。でもさ、たまには自分で経験してみたら?」 「僕はここでピアノを自分の手で弾く以外は仮想現実にいるんです。あんなところに何もないんです」 ヒロトは項垂れて動かない。 蓮子は古い楽譜をめくりながら、ため息をついた。  その週末、沖田精神病院の一室で沖田と蓮子は向き合って座っていた。蓮子は沖田から感情を買ったのはあの一回だけだったが、沖田には3回頼まれて売ったことがあった。 「個人情報は言えませんけど、寝たきりの女の子が鴻上さんのピアノコンクール優勝のときの感情を買われましてね。初めて高揚感っていうのが分かったと、お礼いわれました」 「そうですか。自分で持っていると自惚れの原因になりそうな感情でしたけど。役に立ってよかったです」 「それでですね。今度は悲しみとか孤独感を売りませんか?」 「えっ……そんな暗い感情をですか?」 「こういうのもニーズがありましてね」 「あぁ、でも。感情って本当は選択して感じるものではないのでは? 最近、迷いだしてます」 沖田は微笑みながら、蓮子を伺うように、 「うーん。でも、必要とされている方もいるんですよね。上質な憎悪や喪失感なら特に」 蓮子は首を横にふりながら。 「暗い感情を人にあげるのはちょっと……今日は帰ります」  蓮子はモヤモヤした気持ちで外に出る。一体、負の感情をわざわざ買うとは……。目のキラキラした志津子と悩み切っているヒロトのことが重い浮かぶ。心と天気が連動しているのか、今日は晴れてはいるが霧が立ち込めたようになっている。湿度の高い日だ。しかし、粉塵やウィルスが減るはずはない。蓮子はマスクをきつくはめて街を少し歩いた。まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。そこで久しぶりに喫茶店に入ってみた。  蓮子が窓際の席でココアを飲んでいるとそこに平井がやってきた。 「渉……」 「外、歩いていたら見えたから。元気ないね?」 「うん、まぁ。でも、今どき元気ハツラツな人いないでしょ。何か用?」 「ううん。今まで蓮子に悪い事したなぁって思ってて。見かけても声かけられなかったから」 「ふーん。まぁ、もうすぐ別れて半年だけど、 もう悪いって気持ちないんだ。まぁ、善悪の話でもないけど」 「うーん。そうなんだ、結構、大幅になくなった。そういう気持ちって辛くて。実は『イット』ってのに詰め込んで売りに出してみた。裏切ったことの罪悪感と蓮子のこと一番好きだったときの感情と」 「そう。それで、気楽になって話しかけてきたんだ?」 「気楽って表現されてしまうのは嫌だな。陽奈を選んだあとも正直いまでも、蓮子の事、思うと苦しいところはあるんだ」 「私はいまムカムカしてきた。感情がなくなるって厚かましくなるのね」 蓮子は平井を睨んでしまう。いま、久しぶりに憎いという感情が湧いているを感じる。 「蓮子もそういう感情は売りに行って無くせば? 今の若い子って恋愛とかしないから、どんな感情でも恋愛の要素あれば買うみたいだ」 「私と付き合っていた時の感情は要らなくなったのね。」 「いや、いや。全部は売ってない。美しいものだけ残しているんだ。僕たちが付き合った事実は本当なんだし」 平井はへらへらした笑みを蓮子に向ける。 「なんか、もう……どうでもいいわ、ほんと」 「怒らせちゃったな。ごめん」 平井はマスクをはめて出て行った。 その時、蓮子のスマホが鳴る。着信は志津子であった。
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