今夜だけは抱きしめて

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 私が初めて好きになった男性は、いつも誠実で、自分の境遇が決して恵まれたものでなくても、誰に対しても思いやりがあった。彼と離れてから十年余りが過ぎたが、時おり思い出す彼の様子は、私の甘くてほろ酸っぱい記憶の中で優しい笑顔を見せていた。  歳月は人を変えるというけれど、彼、速水秀一に関しては今も変わらぬことを信じて疑わなかった。でも、再会した彼にはあの頃のひたむきさや誠実さはなく、自分の利益のためには手段を選ばぬ非情さと私への憎しみが宿っていたーー  柳沢遙は、その町では誰もが知る名士の家庭に生まれた。母親は元々身体が弱く、遥を産んで間もなく命を落とした。それは息子の貴史が8歳、遙が1歳の時だった。父親なりに母を愛していたのか、その後は特に誰とも結婚することはなかった。ただ、会社の社長として仕事の忙しさもあって、二人の子どもの世話は、お手伝いの松井に任せきりだった。長男の貴史は、跡継ぎであるために、松井を始めとする周囲の人間が甘やかして育てていた。一方の遙は、名士の娘として、礼儀作法など厳しくしつけられた。そんな生活の中でも、彼女が健やかに育っていったのは、遙を娘のようにかわいがってくれた隣町に住む母の妹のおかげである。 ーーもし、お母さんが生きていたら、叔母さんみたいに、一緒にお菓子をたべたりしながら、いろんなことお話しできるのかなーー 残念なことに、その後結婚した叔母は、県外へと引っ越してしまった。でも、いつか自分が母親になったら、あんなふうに母子で話ができる温かい家庭を幼心に夢見ていた。
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