3.

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 年を重ね、現実の世界でも好きになった人がいた。  ちょっとした仕草や、交わしたささいな言葉が心にひっかかり、気が付くと姿を目で追っている。  学生の頃の恋は、いつでも告げることのない片思いだった。  友だちに、こっそり打ち明けるのが、関の山だった。 「実は……」と話を聞いてもらうのも、何回目だっただろう。その友だちが、気になることを言った。 「さきの好きになる人って、だいたい感じが似てるよね」 「え? そうかな……」  思い当たる節がないではなかった。  髪はスッキリと短い。真っ黒ではなく、少し栗色っぽい。  体型はスリムで、スキニーのジーンズが似合う。  メガネをかけている。その奥の目が、実は表情豊かでキラリと輝く。  そして、決め手は笑顔。にかっと笑う。くすっと笑う。あまりにも楽しそうだから、こちらもつい笑顔になってしまうぐらいの笑顔。  そう。  私の心の中には、あの少年がいる。  きっとその面影を重ねているのだ。  どうせ、恋に憧れているだけなんだもの。それでもいいと思った。    大人になると、少年のことはあまり思い出さなくなった。  世の中には、すてきな人がたくさんいるのだ。  私はもう、その人その人のいいところをみつけて、好きになれる。  そう思った。  就職した会社は、若い人が多く、活気があった。  きびきびと働くみんなの姿は、見ていて気持ちが良かった。  私は経理部だったので、営業の人たちがよく領収書を持ってやってきた。華やかな同期の河村さんは、そんな営業の男性と、軽く冗談を言い合う。ベテランの牧野さんは、ビシッと「これは経費では落ちません」と領収書を突き返す。私はなかなか二人のようにはできず、黙々と伝票を繰り、テンキーを打っていた。    飲み会や、何人かで集まってドライブやバーベキューなど、再々イベントが企画された。まず河村さんが誘われる。 「神谷さんもどうかな」  明らかにおまけっぽいなと思いつつ、ここで卑屈になってはいけないとにっこり笑う。 「はい。行きます」  そうやって出かけていると、毎回近くの席だったり、同じ車になる人がいた。  新規事業部の門倉さんだった。話題が豊富で、よく冗談を言って周りを笑わせていた。その門倉さんが、ある時、私をまっすぐ見て言った。 「神谷さんて、字がきれいだし、入力してる時も背筋が伸びてて、きりっとしてるね」  そんなことを言われたのは初めてだったから、とても驚いた。  でも……私の仕事姿を見てくれている。  知らないうちに見られている恥ずかしさはあったけれど、認めてもらったようで、心が浮き立った。  それから、程なくして、グループではなく、二人で出かけるようになった。  門倉さんの率直な物言いは、好感が持てた。  それでも道を歩いていて、何の脈絡もなく、「俺、さきちゃんのこと、好きやなあ」と言ったりするのには、どぎまぎした。  真っ赤になってうつむく私を見て、慌ててとりなす。 「からかってるわけでないでな。何か気持ちが沸き上がってきて、言わんといられん感じがして、言っても言っても足りん気がして」  その言葉は、何万本のバラより私の心を熱いもので満たした。 「私も、門倉さんのこと好きです」  門倉さんは照れたように笑った後、ちょっとすねた顔をした。 「いい加減、下の名前で呼んでくれんかな。いずれ、さきちゃんも門倉になって欲しいし」 「……え?」  私はまばたきをした。  門倉さんは真剣な顔で、私に向き合った。 「結婚しよう」  私に迷う理由など無かった。こくんとうなずくと、彼はにかっと笑った。ああ、この笑顔がたまらなく好きなんだなあ、と私もつられて笑っていた。    そこは、歩道橋の上だった。暮れ始めた空は、赤く染まる。  満開の桜の並木が、通りのあちらとこちらに伸びていた。  連なる赤いテールランプまでが、私たちを祝福しているようだった。
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