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08 ふたりの慟哭
聡流はもはや、そこが何処なのかよく分からなくなっていた。
分かるのは、目の前に大きな沼地があって自分はそのほとりにいること。土手の斜面に座り込んでぼーっと水面を見つめていると、町の灯りが反射して綺麗に揺らめいている気がした。その向こうは別の世界に通じているような予感がして、聡流はそっと身を乗り出して境界線の先を覗き込もうとした。
キイィッと耳障りなブレーキの音がした。ビックリして振り返ると、明美が急停車した車の座席から飛び出して、土手を滑り下りてくるところだった。聡流自身と同じぐらい、明美の方も信じられないといった表情を浮かべていた。
「明美さん……」
「……心配させないでよ、急にいなくなったりして!」
まだ戸惑いを隠しきれないでいる聡流に、明美は叫ぶようにして駆け寄ってきた。
頬を引っ叩こうと手を振り上げ――聡流の虚無に満ちた顔を見て即座に躊躇いを覚えたのかバツが悪そうに、手を元通りに下ろす。その感情の処理をどうしたものか、逡巡していたようだが少し経つと、努めてそうするように明美は冷静に話し始めた。
「君のお父さんが、警察に捜索要請しに来たのよ。いなくなったって。ただ事件の確証もないから警察は動けなくて……丁度私が当番終わりだったから、すぐに車借りてきてあちこち捜し回ったの……一日中走ってたんだからね」
その時ようやく、明美が制服ではなく私服姿であることに聡流は気が付いた。いつもと違い洒落た雰囲気は微塵もなく、髪はボサボサで目の下には若干クマが出来ていた。それらの情報だけでも、彼女が相当焦って出てきたことが垣間見える。
「でも、確か試験勉強するって」
「試験より、君の無事が優先に決まってるでしょ!? 馬鹿なこと訊かないで!」
「……ごめんなさい」
本気で怒った様子の明美を前に、聡流は思わず目を泳がせる。そんな風に言われるとは予想していなかったのだ。明美が、今までも何度かそうであったように、聡流のことを力いっぱい抱きしめてくる。だが明らかにひとつ、普段とは違うことがあった。
明美の手が、微かに震えていることに気付いたのだ。
「……ホントにさ、心配させないでよ」
「……」
聡流はただ黙って明美の腕の中に沈んだ。そっと自分も彼女を抱き締め返す。
本物の明美は、夢の中などより遥かに乱暴で、温くて、人間味に溢れていた。
深夜の町並みを、明美と聡流の乗ったレンタカーが走っていく。
人通りの限りなくゼロに近い、闇と静寂だけが支配する異世界。このようなドライブはこれまでで初めてだった。だが反面、明美も聡流もお互い何ひとつ口をきかない。
先に沈黙を破ったのは、明美の方からだった。
「……君んちがああいう風になったの、お母さんがいなくなってからなんだって?」
「……昔はあの人、あれでも科学者だったんですよ」
聡流は何も見えない窓の外を眺めながら、遥かな昔に想いを馳せるように言った。
「母さんひとりいなくなっただけで、あのザマです。カルト教団のリーダーになんかなって、安い嘘並べて人を救った気でいる……本当は自分が一番、周囲の人間に救いを求めてるのに。皆その巻き添えにされてるんですよ。迷惑な話です」
明美はそれについては何も言えない。言えるような知識を有していない。
「お父さん、不安がってたよ。君にもしものことがあったらどうしようって」
「あった方が良かったんじゃないですかね、もしものこと……だって僕たち親子が消えてなくなっちゃえば、教団だって解散するしかなくなるんですから」
「ちょっと、本気で言ってる?」
明美の声音に怒りが籠っていることを察知し、聡流は返事をする代わりに不貞腐れた表情で窓の外にただ目をやった。子供じみた態度を隠さなくなった聡流に呆れた様子で、明美もやや大げさに溜息などついている。
「嫌だと思ったところで、所詮は親子なんですから……きっと知らないうちに同じようなことしちゃってるんです。あんな風になるぐらいなら、死んだ方がマシだ」
「……サトくんさ、初めて会った時から思ってたけど、そういう何でも見切った風なこと言わない方がいいよ。自分自身のことだって、あんまよく分かってないクセに」
「へえ、明美さんになら分かるって言うんですか」
「……だって君、私のこと好きでしょ」
聡流の喉の奥で何か言葉が出かかったが、咄嗟に飲み込んだ。
明美はそれ以上何も言わない。ただずっと車の進行方向を見ている。またしばらくすると、自分で耐えられなくなったようで、再び沈黙を破ろうとした。
「サトくんはさ、他の人より悩むことは多いかもしれないけど、それでも自分で思ってるよりずっと、普通の男の子なんじゃないの。科学に興味があって、誰かを好きになって……別に、それを悪いなんて思う必要、最初からないんだよ」
「……本気で、そう思うんですか」
「もちろん、本気――」
「僕が、明美さんを汚らわしい目で見たとしても、それも悪くないって言うんですか!」
車両の急停車で、二人は猛烈な勢いで前のめった。
万が一シートベルトを忘れていたらフロントを突き破って飛び出していきそうだった程で、道のど真ん中で動かなくなった車内で、明美は呆然と隣の少年を見つめていた。
「サトくん」
「僕はそう思えない……僕は自分が許せないんです……明美さんを、女の人を、いつの間にか汚い目で見るようになってて……そんなの……あの人と同じじゃないか……」
すすり泣きの声は、次第に大きくなり、やがて決壊したように本格的な嗚咽に変わる。
しゃくりあげる声と、涙が止まらなくなる。何もかも訳が分からなくなる。
流石に少しの間戸惑っていた明美だが、気持ち優しめに聡流を抱き寄せようとし、いつかのように乱暴に撥ね退けられてショックを受けた顔になる。その後も何度となく同じやり取りが繰り返され、いつしか両者とも意固地になっていた。
「サトくん落ち着いて、サトくん」
「触らないで下さい……僕なんか汚くて、穢れてて、醜くて」
「サトくん! こっち向いて!」
涙でボロボロになった聡流の顔を掴まえ、明美は半ば強引に上を向かせる。未だかつてないほど、二人は真剣に見つめ合った。聡流の目は嵐の日の堤防の様に潤んでいた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「サトくん。君が誰の子供で、どんなに酷いもの見てきたとしても、これだけは確かだよ……誰かを好きになっちゃいけない人なんていない。誰にだって当たり前にある気持ちだよ。君はそんな当たり前のことで傷ついたり、人を思い遣ったりできる優しい人なんだよ」
聡流は泣き腫らした瞳で明美を見つめた。
やがて彼女は、聡流の頭を今一度、力いっぱいに抱きしめる。
「ごめんね……本当のこと言えば……私も怖かったの」
「……明美さん」
明美の表情は見えない。だが明らかに、声音に湿ったものが混じりつつあった。
「サトくんと一緒にいればいるほど、自分があの親と同じになっていく気がして……ううん、多分もうなっちゃったんだと思う。だから距離を置こうって決めたのに、君がいなくなったら居ても立っても居られなくなって……」
「僕のこと……好きなんですね」
明美は涙声で、弱々しく頷いた。
「私……本当に悪いお巡りさんになっちゃった」
「……ごめんなさい……僕の所為で」
「いいよ、もう。私こそごめんね……本当にごめん……」
二人きりの時間が、抱き合って泣いたまま静かに過ぎて行く。
どうしたら解決に至るのか、聡流にはまるで分からない。けれども不思議と、聡流にはもう死にたいという気持ちはなくなっていた。
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