02 聡流と明美 その2

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02 聡流と明美 その2

「……サトくんあのね、実は私、昇任試験を受けてたんだ、最近」  居住まいを正し、改まった口調で明美はそう切り出した。 「しばらく会えなかったのって、その勉強してた所為でもあるんだけど」 「階級上げるための試験があるって、確か言ってましたね。明美さんは何でしたっけ」 「巡査……一番の下っぱってことね。正確には巡査長だけど」  巡査長とは、指導力を買われた巡査が割り振られるある種の名誉階級だ。後進の面倒を見る立場にあたるため、勤務歴の長い者であればほぼ自動的に任じられることもある。 「取り敢えず筆記は受かってたんだ。来月やる実技と最終面接まで合格したら、巡査部長って階級になる。要はレベルアップね」 「凄いじゃないですか!」 「……それでねサトくん、多分、っていうか殆んど確定なんだけど」  明美は少しだけ打ち明け辛そうにしていたが、遂に意を決した様に言った。 「警察って階級変わると、配属先も変わっちゃうらしいの……今通ってる交番を離れることになるから、こうやって今までみたいに会う事は出来なくなると思う」 「……え」  聡流は、予期せぬ報せに頭の中が真っ白になった。 「サトくん、自分のケータイとか持ってないし、今のうち言っておかなきゃと思って」  警察内というのは、思いのほか職員の外部との人間関係に厳しい。万が一、反社会勢力との繋がりなどが生じないようにするためだが、若手のうちは先輩警官によるケータイのチェックなど日常茶飯事らしい。そうした監視網を逃れるため、明美は聡流と約束や待ち合わせをする際は敢えて一切、電話やメールを介さないやり取りを選択してきた。  これまでは、それでも頻繁に会うのを可能にするだけの環境があったということなのだが、逆に言えば環境が変わった瞬間、彼らは簡単な意思の疎通さえも不可能になる。  聡流の中で、色々な考えが渦を巻く。動揺を隠しきれずに明美を見たり、目を逸らしたりを繰り返していると、彼女はすぐ取り繕う様にして言ってきた。 「……あっ、勿論だけど合格したらの話だよ? 実際、昇任試験なんて一割か二割ぐらいしか受からないっていうし、もしかしたら普通に落ちて、来年もこのままの可能性だって……」 「いいですよ。むしろ、今まで有難うございました」  聡流は敢えて、自分の方からそう告げることにした。 「……こんなに長い間、明美さんのお世話になるなんて思ってもなかったですから」 「……ホント、ごめん」  そのまま、またしても互いに何も言わないでいる時間が生まれた。  ただし、今回のはひどく空気が重たい。店内の離れたところから、見知らぬオジサンたちの音量ばかりが大きく軽薄な笑い声が聞こえてきて、どっか行ってくれよと聡流は思った。 「……サトくんもさ、丁度いい機会だから受験に専念しなよ」  その雰囲気に耐えられなくなったのか、明美が誤魔化す様に笑ってそう言った。 「私なんかと会ってるよりも、今は将来のために頑張った方がさ」 「受験なんてしませんよ」  意図せずして、つい投げやりでトゲのある答え方をしてしまう聡流。  その返事には、明美の顔も微かに強張っていた。 「……だけどさ」 「将来のことなんて、相変わらず何も考える気起きないです。考えたって、仕方ないじゃないですか……分かってるクセに。なんで明美さん、そんなこと僕に訊くんですか」 「…………ごめん」 「あ……」  言ってしまってから、聡流は後悔した。謝ろうと僅かに身を乗り出した拍子に肘がコップに衝突し、中身をテーブルにぶちまけてしまう。慌ててテーブル拭きを取ろうとすると、不意に明美と互いの手が触れ合った。 「「……っ!」」  心臓が跳ねたように、両者とも一斉に硬直する。テーブル上に広がったお冷が、端を伝って落ちて行くヒタヒタという音が、妙にうるさく感じられた。 「あ……私、ちょっと店員さん呼んでくるね」 「ごめんなさい、お願いします」  席を離れて、小走りで去って行く明美の後姿を見つめる聡流。初めて会った頃に比べて長く伸びた髪が、歩幅に合わせて尻尾のようにゆらゆら揺れていた。思えば、自分だけではない。明美の雰囲気もこの二年間で随分と様変わりしていた。  手持ち無沙汰になった聡流は、ふと窓の外側に視線を移した。  立ち並んだ落葉樹は、冬場になるとイルミネーションに彩られるという。あわよくば明美と一緒に見に来てみたい、と願うことさえも最近はあったのだが。  儚い夢だったな、と聡流は春の木々にイルミネーションを幻視しながらそう思った。  地元駅に戻って明美と別れた後、聡流は独りぼっちで実家への帰路をたどった。  時刻は既に夜。河川や田園が取り巻く土臭い風景の中に、金属製の柵で囲われた、ひときわ目立つ大きな敷地がある。中央部には木造平屋の家屋があり、それと隣接するようにして全面黒塗りの異様な建物が設置されていた。ドーム型の形状から、辛うじてそれが天文台であるということが分かる。  住居である木造家屋の方へ向かう途中、天文台から漏れ出している光と音に気付き、聡流はそっと外からその中を覗き込んだ。 「――我々はッ、宇宙の特異点である!」  漆黒の僧衣に身を包んだひげ面の男が、正座をした数十人の信者によって取り囲まれ、伏し拝まれながらそんな言葉を絶叫していた。天文台ドームの内側では、空間全てを利用し今この瞬間も狂乱の宴が開催されている。 「全宇宙のエネルギーと質量で、観測可能なものは僅か五パーセントしかない! 残り九十五パーセントは目に見えない! 暗黒こそが宇宙の真理である! 宇宙の闇を信じる君たちこそ真理である!」 「「「ブラックホール!」」」  信者たちが一斉にそう唱えると、天文台が微かに振動した。 「ブラックホールは百年の長きに渡って、存在を否定され嘲笑の的だった、しかしッ! 今やブラックホールの姿が撮影され……その実在性を疑う者は誰もいない! 我々の信仰は科学によって証明された宇宙の真理であるッ!」 「「「ブラックホール!」」」  教祖の身振り手振りは次第に激しくなる。唾を飛ばしながら際限なく声を張り上げる。 「ブラックホールは神の意思だ! そこに集う君たちこそ宇宙の特異点だッ!」 「「「ブラックホール!」」」 「「「ブラックホール! ブラックホール!」」」  興奮と狂気に満ちた大合唱が天文台の外にまで溢れ出し、闇夜の下で響き渡る。  聡流はパーカーのフードを目深に被ると、それで必死に耳を塞ぐようにして木造家屋の中に逃げ込んだ。宗教法人ブラックホール教会――聡流の実父・黒淵憲星(くろぶちけんせい)が教祖となって設立したその組織は、地元でも有名なカルト教団であった。
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