03 ブラックホール教会にて

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03 ブラックホール教会にて

 その出逢いは、今から二年も前の同じ季節だった。  教団施設の裏側の、比較的目立たない位置にあった物置小屋。半開きになった戸の内側で、当時まだ十三歳の聡流はうずくまるようにして身を隠していた。息を潜め、出来るだけ物音を立てないようにしているその姿は、何に対してかはよく分からないが、非常に申し訳なさそうだった。 「……もしもし。何してるの、こんなとこで」 「……!」  小屋の戸をノックする音がして、聡流は怯えた様に顔を上げる。婦人警官の制服を着た白山明美が、柔らかい瞳でこちらを覗き込んできていた。当時の彼女はまだ現在よりも髪が短く、よくてショートボブヘアというところだった。  慌てて目と鼻をパーカーで拭おうとする聡流を見て、明美は同じ目線までしゃがみ込むと、静かに微笑んでみせた。 「こっちに走ってくるのが見えたから、思わず探しに来ちゃったんだよ……そっか、君ここの人だったんだね」 「ぁ……あの迷惑……かけて……すみません……」 「君が何かした訳じゃないんでしょ? だったら、謝らない」  たどたどしく謝罪する聡流のことを小さくたしなめ、明美は周囲を軽く見回した。 「……お父さんかお母さん、ここにいる?」 「……父さんだったら、いますけど」 「君、名字は? 本当は昨日聞いておきたかったんだけどさ……君、逃げちゃったから」 「……黒淵」 「えっ」  メモを取ろうとした明美の手が、思わず一瞬止まる。 「じゃあ……ここの宗教作ったの、君のお父さんってこと?」 「……ごめんなさい」 「いやいやいや、謝らないで」  消え入るような声で再び謝罪に走る聡流を見て、明美は大慌てになった。 「……そっか、それでか……こっちこそ昨日ごめんね、色々訊こうとしちゃって……」  マズいことしたな、という顔で目を伏せる明美。聡流は未だに俯いたまま。 ヒジョーに気まずい空気が漂っていた。どうやって話題を変えようかと必死だった明美は、色々考えた末、その時に偶然気になっていたことを口にした。 「あ、あのさっ……私あんま詳しくないんだけど、『エルゴ領域』って何のこと?」  聡流の肩がピクリとだが一瞬、反応した。 「多分、宇宙関係だよね。ブラックホールに関係してる何かなの?」  その日、明美をはじめ地元の警察がブラックホール教会の本部を訪れたのは、近隣住民から通報があったためである。教団の人間が土地の境界線をはみ出して、自分たちの敷地に植えている野菜などを、隣接する他人の畑にまで勝手に植えていたからだ。  土地の所有者がそれら無断栽培物を引っこ抜いて回ったところ、トラブルに発展してしまい警察がその対応に呼びつけられた、という訳である。実に傍迷惑な話だった。  警察は双方から事情聴取を行ったが、教団側の信者は「エルゴ領域にあるのだから貴方方も収穫すればいい」などと意味不明なことを興奮気味に(のたま)うばかりで(ろく)に会話にならず、途方に暮れていたのである。  ブラックホール教会は、天文科学のキーワードを宗教用語として使うことで有名だ。例えば信者たちは『星々』、教祖の原体験は『超新星爆発』といった具合である。だが中には専門用語すぎて門外漢にはチンプンカンプンであることも多い。明美自身、超新星爆発の時点でもはやよく分からなかった。 「あ……ごめん、これも君に訊くことじゃなかったかな、忘れちゃって」 「……ブラックホールが自転してるの、知ってますか」  明美は意外に思った。話題の選択を間違ったかなと後悔しかけていたのだが、聡流は微かに関心を示したようだった。とにかく、傷つける結果にならなくて内心安堵する。 「自転って、地球みたく回ってるってこと?」 「ブラックホールは、太陽の何十倍も大きな星が爆発して潰れたものだから……他の星みたく回転してるんです。その周りからエネルギーを取り出して、発電とか出来るらしいです」 「へぇ……じゃあ、そこがエルゴ領域って言うんだ?」  明美は割と本気で驚き、感心した。雑学としては悪くないし素直に面白い。 「銀河の中心にあるブラックホールは、光の速さと同じぐらいのスピードで回転しているそうです。エネルギーを無限に吸収して……」 「……どうしたの?」  聡流が途中まで言いかけて、急に恥ずかしそうに顔を伏せてしまったので明美はふと心配になる。聡流は目線を下げたそのまま、無言で首を横に振った。 「……僕が宇宙の話すると、みんな気持ち悪いって言うから」 「待って待って、誰もそんなこと言わないよ。君、中学生でしょ?」  予期せぬタイミングで予期せぬ反応。明美は、今度こそ本当に慌てた。 「君ぐらいの男の子が宇宙好きなのなんて、普通のことだよ。悪い事じゃないって」 「僕は好きじゃいけないんです……昨日だってその所為で」 「どんな理由でも、君があんな大勢から殴ったり蹴られたりしていい訳ないでしょ」  聡流が口ごもるのを見て、明美は一切の迷いなくそう告げた。前の日のパトロール中に目撃した光景を思い出し、明美の胸の奥が痛む。力強く励ました、つもりだったのだが。 「僕が学校にいる所為で、宇宙のこと好きな奴が『カルト』って渾名(あだな)つけられるんですよ!」 「……!」  絶句する明美を見て聡流は、ははと諦めきったような渇いた笑いを零した。 「そりゃ怖いですよね……他人とトラブルになったら『我々は宇宙の特異点だ!』とか言って逆ギレするし……他人の土地に勝手に野菜植えといて『エルゴ領域』とか何なんだよ、意味がわかんないよ……」 「とにかくさ……こんなとこいると危ないから、出よ?」  返事を訊くよりも先に明美は立ち上がると、物置の戸を開けて聡流を見つめる。  聡流はしばらく迷う様子を見せていたが、やがて観念した様に小屋の外に出てきた。聡流にとって世界の全ては脱色して見えていた。空も建物も風景も、何もかもが薄っすらとした白か灰色に染まっていて、あらゆる天候は曇り以外の何物でもなかった。  突然、聡流は立ちくらみに襲われて足元が覚束(おぼつか)なくなった。彼を咄嗟に抱きとめた明美は、触れた手のひらから伝わる感触の頼りなさに、限りなく不安を呼び起こされる。 「……君、ちゃんとご飯食べてる?」  明美は聡流の腕や胸を服越しに触って確かめる。やはり思い過ごしではない。 「昨日も言ったけど痩せすぎだよ。ガリガリじゃない」 「……ほっといて下さいよ」 「ほっとける訳ないでしょ」 「ほっといて下さいよっ!」  聡流が感情的に手を振り払ったことで明美は少し傷ついた顔になる。一方で当の聡流自身、大声を上げてしまったことに後から気付いて、酷い自己嫌悪に襲われていた。 「……親が人を騙したお金で僕は生きてるんですよ……!」  聡流は俯いたまま顔を上げられずに、声を絞り出した。 「僕がお腹いっぱいになる権利なんか、何処にもないんです……! だから……」 「誰かに言われたの? それとも、君自身の考え?」 「……」 「誰の考えでもいいけど私は違うと思うよ」  明美は今度こそ、決然たる面持ちでそう断言する。お節介と言われても良い。何が分かると言われても良い。だがその点についてだけは、明美は譲る気はなかった。 「君自身で選んで、この家に生まれた訳じゃないでしょ。貴方が死ぬ理由にならないから」 「……別に……死ぬとまでは言ってないけど……」 「あ……えっと……」  明美は遅れて気が付き、ちょっとだけバツが悪くなる。誤魔化すように咳払い。 「とにかく自分から率先して不健康にならないこと。分かった?」  聡流は何も言わない。ただずっと、明美から視線を逸らし続ける。  明美が尚も彼を見つめていると、警察用無線から呼び出しがかかった。流石に、単独行動が長すぎたかもしれない。明美は慌てて返事をするが、その間も聡流から目は離さなかった。  明美はやがて、ふっと一息つくと聡流を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。  ふわりとした柔らかい感触の中に、鼻孔をくすぐる甘い香りと程よい体温。  不意の出来事に、聡流は動揺を隠せなくなった。 「え……あ……!?」 「……聞いて。誰に何言われたとしても、君は独りじゃない。負けたら駄目だからね……」  生まれて初めて感じた温もりに、聡流は戸惑う。戸惑いながらも、おずおずと明美の背中に手を回し返す。ふたりの魂はその日、誰に知られることもなく寄り添い始めたのだ。
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