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04 ふたりの日々 その1
運命的な出会いから早くもひと月が経過した頃だった。
地域の新興住宅地近くにある、内装・外装ともに明るい色味をしたカフェ。その日は平日ということもあって比較的、人足はまばらだ。入口から見て一番奥の席で、聡流と明美は向かい合う様にして座っていた。
いつもと同じグレーのパーカーを着た聡流は、フードこそ外してはいたが実に所在なさげ。もっと言えば挙動不審だ。怯えきったウサギの如き少年を前に、明美は軽く溜息を漏らしつつメニューに視線を落とした。
「……君、コーヒー飲める?」
「一応……」
上目遣いしながら小さく頷く聡流。明美は店員にブレンドをふたつ注文した。
「……いいんですか、こんなことして」
「こんなことって?」
やや遠慮がちに訊ねてくる聡流を、きょとんとした目で見返す明美。
「顔見知りの子に偶然会って、コーヒー奢るぐらい何でもないでしょ」
「でも連れてくる時、これは職務質問だって」
「……ああ、もしかして利益供与にならないかを心配してる?」
少し考えてから、明美は思わず笑った。この子はどれだけ生真面目なのだ。
「取り調べ中にカツ丼とか出すみたいに? 気にしなくていいよ、今日の私は非番だから……そうね、職務は職務でも、警察官じゃなくってお姉さんとしての職務かなー」
「滅茶苦茶じゃないですか……言ってること」
「いいのよ、どうでも。それに君、何か悪い事した訳じゃないでしょ。前も言ったけど」
聡流がどう返していいか分からず困っていると、あっという間にコーヒーが運ばれてくる。明美は角砂糖をひとつだけ入れてかき混ぜると、そのまま静かに飲み始めた。
迷っていた聡流だが、ひとまず顔をカップに近づけ匂いだけでも嗅いでみる。だがたちまちウッと表情をしかめてしまった。渋い。いや渋いとか以前に、臭い。まるでタバコの吸い殻を煮詰めたみたいな鼻を突く異臭がした。明美に遠慮して勧められるままコーヒーを頼んだが、こんなものの何が良いのかまるで理解出来ない。
とはいえ一切口をつけないのも失礼だと思い、聡流は仕方なく備え付けの角砂糖をどぼどぼカップに投じると、かき混ぜたそれを更にちょびちょび飲み始める。元のままよりは、幾分かマシだった。
「……児童相談所の保護、断っちゃったんだって?」
コーヒーが気道に入り込んで、聡流は思わずむせ返ってしまう。明美が身を乗り出してきて軽く背中をさすってくれたが、落ち着くまでにしばらく時間が必要だった。
「やっぱり……貴女が通報してくれたんですね」
「お父さんたちに、そうするようにって言われた?」
「……心配してくれたのにごめんなさい。えっと、あの……」
「私は、白山明美。明美って呼んでいいよ。君のことは、サトくんでいい?」
聡流が、相手の名前を分からないでいるということに気が付き、明美は朗らかにそう告げてくる。聡流は照れくさくなって目を伏せた。愛称で呼ばれるなど何時ぶりか。
「……あ、明美さんの気持ちは嬉しかったです……でも、色々怖い噂を聞いて」
「噂? どういう噂?」
「牢屋みたいなところで……笑ったり、喋ったりするのが禁止だって。一度入ったらそのまま何か月も、ずっと出られないって。逃げ出しても、またすぐ連れ戻されるって」
「あー……そういうことか」
明美は大体すぐ納得した。
「まあ、当たり外れが激しいっていうしね……」
児童相談所の体制は万年人手不足であるとされている。児相による一時保護は子供の権利を守るのが趣旨である一方、キャパオーバー気味で画一的な対応を余儀なくされること、不測の事態を避ける目的などから管理が過剰化し、結果として児童本人からすればより深刻な抑圧となって作用するケースのあることが指摘されている。
ましてや聡流の場合、家庭環境が良いとは言えないまでも、積極的な虐待が行われている訳ではない。ブラックホール教会自体、近隣トラブルの頻発する一方で刑事事件に発展した様なケースは皆無だ。聡流本人が拒絶するなら、児童相談所もそれ以上の介入は難しい。
「ごめんなさい、折角色々してくれたのに」
「いいよ、サトくんが自分でそうするって決めたんでしょ?」
申し訳なさそうに頭を下げる聡流だが、明美は思いのほかあっけらかんとしていた。
「謝る必要ないよ。私だって、たぶん同じこと聞いたら二の足踏むもん」
「だけど……」
「サトくんさ、甘いものが好きならこれ食べてみない?」
聡流が尚も謝ろうとするのを遮り、明美はメニューにあった一番豪華なものを指差した。
「スペシャルパンケーキ。美味しそうじゃない?」
「でも、悪いですよ」
「なーに? まーだ『僕には食べる権利ない』とか思ってる? 相変わらずあんま食べてないっぽいしね……何でもいいから食べないと、ビョーキになっちゃうぞ」
「う……」
「決まりね。スペシャルパンケーキふたつ!」
返事も聞かずに明美は注文してしまう。どうにも彼女は強引なところがあった。
「私は君んちの宗教とはなーんの関わり合いもないし、ただ知り合いの子が栄養不足だから、美味しいもの目一杯食べさせてあげたいって思うだけ。これ、何か問題ある?」
「……ないです」
「素直でよろしい!」
ニッと笑った明美から不意に頭を撫でられて、聡流は身をすぼめる。何故だか分からないが胸の奥がギュウッと締め付けられるような感覚があった。
しばらくするとスペシャルパンケーキが到着する。数段重ねのうえに生クリームも山盛り。その上にシロップをかけると、ふたりは揃って食べ始める。
明美など心から嬉しそうに目を細めていた。
「美味し~! 目玉のメニューなだけあるね。サトくんはどう?」
「そう……ですね……」
最初のうち、聡流は遠慮がちだった。丁寧に、丁寧にパンケーキを切ってはひとかけらずつ口の中に運んでいく。クリームとシロップが舌に溶ける。ふわふわした舌触り。刺激と充足に飢えていた味覚が、胃袋が、より多くを求めてと聡流を急き立てる。
気が付けば、聡流はパンケーキを大きな欠片のまま頬張るようになっていた。切り方がやや乱暴になる。体裁よりも実を求めて、手が自分の意思では止められなくなる。
聡流の瞳に大粒の涙が溢れ、頬から首筋へぼろぼろと流れ落ちた。
「……美味しい?」
「……ッ! ……ッ!」
無言でひたすら頷き続ける聡流を、明美はホッとしたように笑んで見守った。
聡流は少し恥ずかしくなり、再び目線を伏せる。それでもパンケーキを頬張る手は止めないので、涙だけでなく小麦粉の欠片まで膝に零れ始めていた。明美は苦笑しながら、ナプキンをつまむと聡流の口元を軽く拭ってやる。
聡流を見守る明美自身、どこまでも幸せそうであった。
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