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窓から見える空が暗く灰色によどんできたから、嫌な予感はしていた。降り注ぐ銀線が、すでに作った水たまりでバチャバチャと弾けている。
昇降口の軒下にたたずんだ凍雨は、雨雲に沈んだように暗い校庭を眺めてため息をついた。午前中は晴れていたなんて、自分の記憶の方を疑いたくなる。
だが、その証拠に傘がない。持って来ていない。置き傘は元々していない。凍雨と同じ目にあった者は少なくないようで、いつもは数本置いてある貸し傘も今はない。
日直だからと、担任が用を頼まなかったのなら、前島と一緒に帰ることが出来たのに。
前島は雨の時季でなくともカバンに傘を入れている類の人間だ。ちなみに、矢中と外口は駄目だ。彼らは大雨の日に走り回る類の人間だ。
一か八か、後田が校舎に残っていないか、確認しようと凍雨は下駄箱に引き返した。上がらずに、すのこを挟んで背伸びしながら後田のスニーカーを探す。出席番号を覚えていないので、右上から順番に見ていった。
キュッキュッと廊下を踏みしめる音が近づいてくる。
「凍雨くん?」
棚を追っていた目が瞬く。
女の声だった。凍雨を下の名前で呼ぶ女性は学校にいない。しかし、凍雨を驚かせたのはその違和感ではなかった。
その声が、遠く記憶を揺さぶる、甘く柔らかい声だったからだ。
彼女が廊下からこちらへ入ってきたようで、靴音が変わる。
「どうしたの? 早く帰った方が良いよ。雨、もっと強くなっちゃうって。」
声が、すぐ横まで近づいてきた。
凍雨はぐっと唇をかみ締めた。振り返る。立っていたのは沙穂だ。肌寒いのか、カーディガンの前をかき合わせている。段差の分、リーチがあるはずなのに、凍雨と目線が並んでいる。
沙穂がいる。目の前に。あの頃と変わらないくりっと丸い目で、自分を見ている。
どうしてここに。どうして今更。
どうしてと、そればかりが頭を巡る。その中の一つがぽろりとこぼれた。
「どうして、名前……。」
「ん? あー、外口くんがそう呼んでたから。」
いつのことだろう。沙穂の前で名前を呼ばれた記憶が凍雨にはない。
沙穂の視線が、凍雨の手元と傘立てにチラッと走る。凍雨の目へ戻って来た。
「傘、ないの?」
「……はい。」
何となく気まずくて、凍雨は斜めに視線を逃がした。視界の端では、沙穂が口元に手を当てて何やら考え込んでいる。やがて、ふいっと顔を上げた。
「先生の傘で良かったら、貸してあげる。」
――これ返さなくて良いから!
目の前の彼女は微笑んでいるのに。焦ったようなあの声がよみがえるのは、差し出される彼女の手が変わらないからだ。
子供が雨にぬれるのは可哀想だと、そう。
受け取る凍雨の心は、あの頃とこんなにも違うのに。
凍雨はふいっと顔を背けた。
グラグラと胸が煮えている。どうして、なんでと沙穂を責めている。
何一つ口に出来ない凍雨を責めている。
今日も沙穂は来ない。
抱いている膝に顔を押しつけて、目からあふれそうになるものを押さえ込む。
「バカ。サホの、バカ。」
今更名前を口にしたって、もうあの人は振り返ってくれない。届かない。
ああ、どうして。一度くらい名前を呼ばなかったんだろう。
どうして。名前を教えてあげなかったんだろう。
どうして。ちゃんとお別れが言えなかったんだろう。
きっと、沙穂は忘れてしまう。名前も知らない子供のことなんて。きっとすぐに。
「あの……。」
先程まで真っ直ぐに飛んできていた沙穂の声が、力なく沈む。
「公園の外で話しかけたから、怒ってるの?」
「え?」
消え入りそうな声だった。それでも、雨音にもかき消されずに確かに聞こえた。思わず沙穂を見る。
振り返った凍雨に、沙穂はビクッと肩を揺らした。本人としては、誰の耳にも届けるつもりのない独り言だったのかもしれない。口元を押さえている。
「今の……。」
「ご、ごめんね。何でもないのっ。傘持ってくるね!」
きゅっと沙穂がきびすを返す。ふるんっとおダンゴが揺れる。
凍雨は逃げていくカーディガンの裾をつかんだ。びんっと布地が張って、沙穂が立ち止まる。
おそるおそる、といった様子で振り返る彼女を、凍雨はぎっとにらんだ。
「僕だって、分かってたの?」
こくり。沙穂がうなずく。
「いつから?」
「……四月に、朝見かけて。」
あいさつ運動の時か。それより前か。どちらにしろ、あの時点で凍雨のことを分かっていたのか。
カーディガンをつかんだままの手に力がこもる。
「それで? 僕が公園の外で話しかけるなって言ったから、律儀に黙ってたの?」
「うん。」
「バカじゃないの。」
「だって、悲鳴あげられたりしたら、今の方が大惨事だよ!?」
沙穂の方が悲鳴のような声をあげた。凍雨は空いている方の手で額を押さえた。何だか頭がぐるぐる回っているようで、頭痛がする。
「怒ってるよ。怒ってたに決まってるでしょ。」
戻って来てたなら、何で教えてくれなかったの。
やっと再会したのに、何でいつも通りなの。
今年も、桜を一緒に見られなかったじゃない。
どうして、他の子ばかり構うの。
どうして、傍に来てくれないの。
四月のあの日からたまっていた文句が、胸の内で暴れている。ぶつける相手は目の前にいる。でも、のどの奥でつかえて、一つも口にすることが出来ない。
一番言いたい、ごめんねの一言も。
代わりにこぼれたのは、弱々しい声だった。
「沙穂のバカ。」
ひゅるひゅると力なく落下する声。それをすくい上げるように、沙穂は凍雨の手を両手で包んだ。へへっと笑う。大人にしては丸みのあるほほに、赤みが差す。
「私のことなんて、覚えてないと思ってた。」
凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。額を押さえていた手を下にずらして、手の甲を目に押しつけた。
***
四限の理科が終わって、ぞろぞろと科学室を出る。
「腹減ったー。」
腹部をさすりながら、たかたかと外口が前を行く。凍雨は前島と並んでその後に続く。階段を駆け上がって、外口が「あ!」と声をあげた。廊下へ身を乗り出す。
沙穂が女子生徒二人と何やら話している。一人がノートを開いて見せているので、授業に関することだろう。
「さーほーちゃーん!」
外口が手を振り駆け出す。沙穂がこちらを振り返る。
びんっ!
「ぐぇっ。」
数歩行って、外口がのけ反った。自身の襟を引っ張りながら、凍雨を振り返る。その目には涙が浮かんでいる。
「何すんだよ凍雨!」
凍雨はきょとりと目を瞬かせた。自分の手が、外口の襟をつかんでいた。
……いつの間に。
横では前島が肩を揺らしている。女子生徒と分かれて、沙穂がこちらに駆けて来る。
「外口くん? 橋場くん? どうしたの?」
くりっとした大きな目に見つめられて、凍雨は外口を放した。外口がけほっとむせる。沙穂は心配そうに眉を寄せて、その背をさすり始める。
む。
「沙穂。」
「先生でしょ。先生。」
沙穂が眉をきゅっとつり上げて、凍雨を見上げる。凍雨は、そのほほをぐにっと引っ張った。大きな目がくるりとさらに丸くなる。
「にゃにするの、ひゃしびゃくん!」
「あっはっはっはっ。急にどうしたの橋場。何したいのお前っ。」
沙穂が非難の声をあげると、とうとう前島が腹を抱えて笑い出した。ここは階段なので、二人の声がよく響く。
前島が何を笑っているのかよく分からないし、自分自身でも何がしたかったのかよく分からない。
「もうっ。何なの!」
手を払った沙穂が、ほほをさすりながら凍雨をにらんでくる。それを見て、なぜか気分が晴れたので、凍雨的にはもう全部解決した。
怒らせて気分が良いなんて、前島が言った通り、自分は沙穂が嫌いなのかもしれない。そういうことにしておこう。
END
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