まだ、うまく言えない

2/5
前へ
/5ページ
次へ
 橋場一家がこの町に引っ越したのは、凍雨が小学四年生の冬のことだった。  単純に父の仕事の都合だ。母は、四月まで凍雨と元の町に残りたいと訴えていたのだが、それはかなわず、中途半端な時期の転校となった。  凍雨は、新しいクラスになじむことが出来なかった。  最初の一週間はクラスメイトに囲まれることが多かったが、それがいけなかった。人見知りの嫌いがある凍雨は、大勢にわいわいと話しかけられることに驚いて、彼らを拒絶してしまったのだ。むっつりと黙り込んでしまう凍雨に、やがて誰も話しかけて来なくなった。  凍雨は休み時間も放課後も、一人で過ごすことになったが、それ自体は大した問題ではなかった。凍雨は一人の時間が嫌いではなかったからだ。  ただ、家に帰ると母が質問を重ねてくるのが辛かった。 「今日、何があった?」 「休み時間、何してた?」 「誰か、仲良しになれた子はいる?」  以前は、こんなことを聞いては来なかった。 「べつになにも。」 「本よんでた。」 「とくには。」  凍雨が答える度に、母の顔が悲しそうに曇った。  凍雨は家に帰るのが嫌になった。家にいるのが嫌になった。  ランドセルを自室に置いて、すぐ外へ飛び出すようになった。交わす言葉は減ったのに、”遊びに出る”凍雨を見て、母はうれしそうにしている。凍雨はますます家にいられなくなった。  外でしたいこともないのに。  待っている人もいないのに。  ***  凍雨はいつも公園にいた。自宅から小学校とは反対方向にある、小さな公園だ。滑り台と花壇くらいしかない。  そこの滑り台の天辺に腰かけて、日が沈むのを待つ。大体は本を読んで時間を潰すのだが、雨の中に持ち出すわけにはいかず、降った日はぼんやりと雨雲を眺めて過ごす。  それは、二月の半ばの雨の日のことだった。  ぬれた鉄板に座るのは嫌なので、上にビニール袋を敷く。黒い傘を両手でしかと支えて、ぬれる木々を眺める。滑り台の天辺にこうして屋根を掛けると、まるでやぐらだ。そう思うと秘密基地のようで、凍雨の気持ちは浮上してくる。  ぱしゃんと、軽い水音がした。枝から雫でも落ちたのかと、凍雨は気にもとめない。  けれど、ジャリジャリとぬれた土を踏む音が近づいて来るのに気がつくと、身を強ばらせた。ぎゅうっと、傘の柄を握る手に力を込める。 「ねえ、君。」  投げられたのは少女の声だった。クラスメイトのような甲高い声ではない。多分、凍雨よりいくらか年上だ。 「ねえってば。」  大人になりきれていない甘い声が、もう一度飛んでくる。凍雨はふいっと首を反対方向に向けた。  ジャリジャリ。砂を踏む音が真下まで迫る。 「ねえ、君。ここにずっといるよね? どうしたの? 誰か待ってるの?」  問いを重ねる声に、悲しそうな母の顔を思い出す。自分を囲むクラスメイトの煩わしさを思い出す。  凍雨はぐっと眉を寄せた。 「どこか具合が悪いの?」 「うるさい!」  凍雨は立ち上がると、声の方へ思いきり傘を振った。滑り台を見上げて、傘を傾けていたその人は、まともにしぶきを浴びることになった。くりっとした大きな目がぎゅっと閉じる。 「わぶぶ。」  その人が、傘を片手に預けて、もう一方の手の甲で顔を拭う。  その隙に凍雨は走り出した。滑り台を駆け降りて、その勢いのまま公園を飛び出した。  ぬれてぐずぐずになった靴、張り付いて生ぬるい靴下をぽいぽいと脱ぎ捨てる。母が困った顔でタオルを持ってきた。 「ずいぶん急いで帰ってきたのね。どうしたの? お友達とケンカした?」  水たまりも気にせずに走り抜けたせいで、ほほにも泥が跳ねていた。それもタオルで拭われる。  その間重なられる言葉に、凍雨の苛立ちが募っていく。  凍雨は口をへの字に曲げて、自室に駆け込んだ。  ***  翌日、滑り台の上で本をめくっていた凍雨は、通りの足音を聞く度に顔を上げた。  犬を連れた老人、買い物袋を提げた女性、カバンを元気に振っている学生が通り過ぎると、ほっと肩から力を抜いた。本へ視線を戻す。  二日目、三日目と平和な日が続くと、凍雨は警戒を解いた。  夢中で文字を追っていると、ぽつ、と紙面に染みが浮いた。あ、と思うと、またぽつり、と雫が落ちてきて、凍雨の首にもひやっとしたものが触れた。本を閉じて胸の下に抱え込む。きょろっと辺りを見ると、視線の先の地面に、ぽつぽつと黒い染みが出来ていく。  雨だ。  傘がない。帰らなくちゃ。  そう思うと同時に、母の顔が頭を過ぎて動けなくなる。  とりあえず、滑り台の下に行こう。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、視界が赤く陰った。驚いて横を向くと、女が立っていた。  公園の前を通る、セーラー服の少女達と同い年くらいだろうか。ぐっと背伸びをして、滑り台の下から凍雨へ赤い傘を差し掛けている。ふわふわとクセのある髪にぽつぽつと雫が落ちている。くりくりした目と、凍雨の目がぱちっと合って、よりまあるくなる。  女はぱくぱくと口を開閉してから、ようやく声を発した。 「あのっそのっ、これ返さなくて良いから! カゼ引かないようにね!」  女は凍雨へ傘を押しつけると、きびすを返して走り去った。振り回している手提げからは青々としたネギがのぞいていた。  帰ってきた凍雨を見て、母はうれしそうに笑った。 「あら。その傘どうしたの?」  バサバサと羽ばたかせて水気を切った赤い傘へ、凍雨は視線を落とした。 「……何だろう。」  凍雨のつぶやきに、母は不思議そうに首をかしげた。  ***  凍雨は今日も滑り台の天辺に座っていた。  空には薄く雲が掛かっているが、雨が降る気配はない。しかし、凍雨は本を持って来ていなかった。代わりに赤い傘を抱えている。  じっと通りを見張っていた。  本日二人目で女は現れた。  曇り空のような灰青色のワンピースに、深緑のカーディガンを羽織っている。女はすいっと滑り台へ視線を投げて、ぴしりと固まった。凍雨が自分の方を見ているとは思わなかったのだろう。  凍雨はいつかのように滑り台を駆け降りると、女の前へ立った。ずいっと傘を差し出す。 「あ、どうも。」  女がおずおずと手を伸ばしてくる。その手が傘をつかんだのを見て、凍雨はぷいっと背を向けた。公園の中に戻る。 「ねえ。」  女の声がかかる。凍雨は肩越しに振り返った。 「そこ、好きなの?」  そことは、滑り台のことだろうか。公園のことだろうか。 「べつに。」  答えると、女は眉を八の字にした。そのまま口を開かないので、凍雨はまたぷいと前を向いた。滑り台を坂の方から登る。  天辺に着くと、女が滑り台の根元まで寄って来た。くりっと凍雨を見上げる。 「私も、ここにいて良いかなぁ?」  凍雨は眉を寄せた。  嫌だ。嫌だけど、ここは公園だ。 「すきにすれば。」  女がにこりと笑う。 「ありがとう。」  女は花壇に腰かけた。カーディガンのポケットからケータイを取り出して、ちゃっちゃっと操作してから、またしまう。その後は先程の凍雨のように、通りを眺めていた。  女は、凍雨が帰るまでずっとそこにいた。  ***
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加