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「私ね、沙穂っていうの。君は何くん?」
公園に来て、滑り台に登る。この女がやって来る。花壇に腰かけてしばらくは静かにしているので、そのままにしていると、ぽつりぽつりと話し始める。それが煩わしくなったら帰る。そうした流れを何日か繰り返した。
昨日から、沙穂は滑り台の階段に腰かけるようになった。
「もう三月なるのに、今日はすごく冷えるね。」
沙穂が自分でしていたマフラーを外して、凍雨の首に巻こうとした。凍雨はそれを左手で払うと、もそもそと膝を抱えた。沙穂が苦笑して、マフラーを自身の膝に置く。
「今日みたいな日は、もっと暖かい格好して来るんだよ。滑り台のこの板だってさ、結構冷たいんだし。」
階段に座り直そうとした沙穂が、「あ。」と小さく声をあげる。凍雨に向き直った。
「今日もさ、お名前教えてくれないの?」
凍雨はぷいっとそっぽを向く。
「しらない人にはおしえない。」
「ううーん。いったい後何回会ったら、知人にランクアップ出来るんだ……。」
沙穂はため息をついて、階段に足をそろえて今度こそ前を向いた。凍雨は顔を少しだけ浮かせて、その背をうかがった。ふわふわした髪が風を含んで揺れている。沙穂は上向いて、空の雲を追っていた。
「なまえなんて、どうしてしりたいの。」
腕の中に吸い込まれるようなぼそぼそした声でも、彼女はちゃんと拾ってくれた。こちらに背を向けたまま、楽しそうな声だけ寄越す。
「名前を知らないと、公園の外で君を見かけても、呼び止められないでしょ。」
「ここ以外でそばによってきたら、ひめいあげてやる。」
「やめてー。ちびっこにそんなことされたら、社会的に死んじゃうー。」
情けない声をあげてから、沙穂は、ああ、でも、とつけ足した。
「ここなら、寄ってっても許しくれるんだ?」
からかうような声音に、凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。ぐりぐりと自身の膝に顔を埋める。
沙穂はなお笑った。歌うような軽やかな声で。
「なら、いいかな。名前、知らなくても。ここで、一緒にいさせてくれるなら。それでいいや。」
沙穂はそれで話を切った。しばらくして、今日の雲の形がどう見えるか話し始めた。
その日から、凍雨の名前を尋ねてこなくなった。
***
沙穂は、ぽつりぽつりと、どうでも良いことばかり話す。
「そこの木にね、冬に赤い花が咲くんだけど、見たことある?」
「私が小さい頃って、外でも男の子達がカードゲームしてたんだけど、今の子はどうなのかな。」
「急にあったかくなったね。もう菜の花が咲いたんだって。」
凍雨が返事をしなくてもお構いなしに、思いついたことから話す。凍雨が本からチラッと目を上げると、にこっと笑う。
「桜はいつ咲くのかな。一緒に見られると良いねぇ。」
前は一日一冊読み終わったのに。
読むスピードが落ちたのは、このおしゃべりのせいで気が散るからだ。
凍雨は本に向き直ると、せっせっと目で文字を追った。
***
昨日は終業式だった。
春休み初日、凍雨は昼食を食べてから出掛けた。沙穂はもう公園で待っていた。
けれど、その日の沙穂はじっと地面を見つめていて、凍雨となかなか目が合わなかった。「あのね、」と口を開くのに、そこで言葉を切って、しばらくして近所の犬の話など、どうでも良い話を続けた。帰る凍雨を見送る時、困ったように眉を八の字にしていた。
次の日も、沙穂は先に来て待っていた。
いつもと変わらず、取り留めがないことをぽつりぽつり話す。しばらく黙ってからふいに、
「私ね、遠くの町の大学に通ってるんだ。」
分かるかな、と沙穂が告げた駅名は、県外のものだった。思わず、凍雨は「ウソでしょう?」とこぼした。
「キミは、もうずっとまえから ここにいるじゃない。」
そう、初めて会ったのはもう一月近く前だ。
凍雨の反応が面白かったのか、沙穂がクスクスと笑う。
「大学はね、春休みがとっても長いんだよ。だから、その間、家に帰って来てたの。」
沙穂が体をずらして、凍雨に向き直る。くりっとした目が凍雨を見つめる。
「それでね、明日、学校の方へ戻るんだ。ここに来るのも、今日が最後。」
急に、音が遠くなった気がした。
「今年から色々忙しくなるから、夏もあまり帰れそうにないんだよね。だから、しばらく会えないね。」
風に揺れる木々のざわめきも、近所で鳴いている小型犬の声も聞こえなくなる。
「本当は、ギリギリまでこっちにいようと思ってたんだけど。お父さん達があっちの様子を見たいって……どうしたの?」
途中で言葉を切って、沙穂が首をかしげる。足下に手をついて、凍雨の顔をのぞき込もうとする。
まだチャイムも鳴っていないのに。まだまだ日は高いのに。凍雨の視界は暗くなっていく。胸の内がグラグラと煮立っている。
ここにいたいって、言ったのに。
一緒にいたいって、言ったのに。
一緒に桜を見たいって、言ったのに。
それなのに、遠くに行ってしまうのか。
それなのに、僕を一人にするのか。
凍雨は衝動のまま立ち上がった。その顔を追って沙穂の目が上向く。
「うそつき!」
口を突いて出て来た四文字に、湧いて来る文句を全て込めてたたきつける。
滑り台を駆け降りる。砂地を蹴って、地面を蹴って、公園を飛び出す。その背を、慌てた声が追いかけてきた。
「待って! ねえ!」
アスファルトを蹴って、凍雨は走り続ける。遠く遠く。速く速く。あの優しい声を振り切って。
凍雨が重い足取りで公園にやって来たのは、二日後のことだった。
沙穂の姿はない。滑り台の終点に腰かけて、膝を抱いた。
あの日言っていた通り、沙穂は来なかった。
***
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