憧れの行方

4/4
39人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
「俺、今日はまだ、しばらく起きてるから」  謙人くんは、沈痛な面持ちの中に笑みを浮かべて、私を見送ってくれた。アパートのドアが閉まって、謙人くんの空間と私の空間とが分断された瞬間、押し寄せてきた心細さに慄いた。ドアを振り返りたくなった。踏みとどまって、空を見上げて、はっとした。星のない闇色の中、雲間に灯る淡い月。儚い光は、私に、せめてもの情けをかけてくれているのか。  恋のきらめきに憧れた無邪気な私は、もっと強い光の下を歩いていた。けれど、今の私が、すべての光を失ったわけじゃない。  消したいと願ったって、過ちは消せない。だったらせめて、これからの私を、あの子に恥じない私にする。  十分ほど歩いた。小さな公園を見つけて、中に入る。奥の方に、ブランコがあった。月の光を受けて、銀色の鎖が鈍く光っている。触れてみると、子供の頃に握ったときと同じ感触がした。かたくて、冷たい。そんなことは当たり前なのに、喉の奥が苦しくなって、唇をぎゅっと噛みしめた。  きぃーっ、と金属が軋む音がする。ブランコに腰掛け、バッグから取り出したスマホには、たくさんの着信履歴が残っている。SNSを開いてみると、そちらにも、百件を超えたメッセージが届いていた。逃げ出してから三週間。ふっ、と唇の隙間から息がもれた。たかが不倫相手に、どうしてこんなに拘れるのだろう。  ゆっくりと息を吸ってから、通話ボタンをタップした。無機質なコールが十回鳴って、留守番電話サービスに繋がった。聞きなれたアナウンス音声の途中で、電話を切った。メッセージなんて残さなくても、すぐに折り返しがあるはずだ。  予想通り、二分と経たないうちにスマホが震え始めた。画面に表示される名前を最低限しか目に映さないようにして、通話ボタンをタップした。 「唯子っ、ようやく連絡をくれた……っ、ごめん、傷付けて、混乱させたと思うけど、俺は、」  早口な台詞の途中で、「もう会いません」と言葉を重ねた。息を呑む音がしてから、数秒、音が何も聞こえなくなった。やがて、「ごめん、傷付いたよね、こんな、騙すような形になってしまって」とまた早口な台詞が聞こえてきた。「私に謝ってもらう必要はありません」と返しながら、苦しげな声を聞けば、いまだに心が波立ってしまうことを、悔しく思った。目を閉じて、息を吸って、次に発する声の抑揚を消してゆく。 「もし、奥様が慰謝料を請求されるなら、メールで連絡してください。それ以外の内容には、一切返信しません」 「妻に言うつもり……?」  相手の声から、苦しそうな息遣いが消えた。それと同時に、私の心に生じていた波も、あっけなく引いていく。 「そんなことはしません。こんなこと、私が言える立場ではありませんが、私はこれ以上、奥様を傷付けたくありません。だけど、あなたがもし、奥様に全部を話して、奥様が望まれるのなら、……私は、ちゃんと償いたいです」  相手は、何も言葉を発さなかった。沈黙がしばらく続いて、「もう、切ります」と私が言っても、やっぱり何も返ってこなかった。震える指で終話ボタンをタップした。力の抜けた手から、スマホが滑り落ちる。その途端に、喉の奥から嗚咽がもれて、次から次へと涙がこぼれた。   きぃ、きぃ、とブランコが鳴らす懐かしい音を聞き続けた。やがて涙が引くと、砂の上に落ちたスマホを拾い上げる。時間を確認すると、〇時半を過ぎていた。コール一回だけで切ろうと決めて、謙人くんの番号に発信した。 「唯子ちゃん……っ」  半コールも鳴らないうちに繋がった。緊張した声は、私を精一杯に気遣うものだ。「私が終わりにできることは、終わらせた」と言うと、「頑張ったね」と優しい声が返ってきた。四つ年下の謙人くんに、私はいつもお姉さんぶって接してきたけれど、これじゃどっちが年下か分からないな、と思った。そして、謙人くんだってもう二十一歳なのだと、今になって、改めて思った。 「いっぱい、迷惑かけてごめんね。今度は、ちゃんと、楽しいお酒を飲もう」  きらめく陽光の下、謙人くんの手を引いた私も、私を見上げた謙人くんも、今はもうどこにもいない。ここにいるのは、二十五歳の私。たとえ、あの頃に思い描いた理想の大人と違っていたとしても、私は、今の私を、ただひたむきに生きていく。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!