憧れの行方

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 発した声は震えていた。どうして私は、被害者みたいな声を出しているんだろう。違うのに。こんな声じゃ、謙人くんは慰めてくれるに決まっている。 「騙されてたんでしょ。唯子ちゃんは悪くないじゃん」  ほら、やっぱり。ゆっくりと紡がれる、謙人くんの声は優しい。駄目だよ。そんな風に庇っちゃ駄目。私を好きだと言ってくれる謙人くんには、私の過ちが見えていないだけだ。 「結婚してるんだって言われて、すぐに別れてたんなら、そうだったかもしれないけど、」  あの言葉を聞いた瞬間に、その場を離れられていたら、被害者のふりができたのかもしれない。けれど私は、苦しそうな声に、思考を止めた。強いお酒を一気にあおったみたいに、くらくらとした酩酊状態に陥った。頼りないその足元さえも、一途な恋の証のように思えて、私はあの人の胸に、縋りついてしまった。  酔いが醒めたのは、あの人のハンカチを見たときだ。乱雑に放られたジャケットからはみ出したそれは、きれいにアイロンがけがされていた。きっちりと丁寧に折られた角が、私の心を正当に突き刺した。私は自分の罪をようやく理解して、慄いて、あの人が眠る部屋から逃げ出した。  今にして思い返せば、驚く程に典型的で、あからさまだった。こちらから電話をかけても、たいてい繋がらないことだとか、平日の夜にしか、デートができないことだとか。そもそも、ほんとうは、気付いていないはずがなかったのだ。  まだ仕事中なのかな。土日も仕事頑張ってるんだな。私はそう信じ込んで、確証の持てない核心から、ひたすらに目を背け続けた。 「でもやっぱり、もしかしたらって、ほんとうは、どこかで思ってた。だから、ちゃんと、……不倫なの」  頬を伝う涙のあざとさに、吐き気がする。拭おうとしたけれど、その仕草さえも、同情を誘うもののように思えた。顔の前に持ち上げた手を下ろし、「ごめん。もう、帰るね」と唇の端を引っ張った。謙人くんが、何かを言おうとした。またひとつ、涙がにじんできて、謙人くんの表情が揺らぐ。駄目だよ。私のために、そんなに苦しそうな顔をする必要ない。せめて涙がまぶたを乗り越える前に、謙人くんに背を向けた。 「唯子ちゃんっ」  手首を掴まれた。強い力だった。そのまま腕を引かれて、謙人くんの方を向かされたときには、唇が重なっていた。  後じさり、目を見開いた。謙人くんは私の手首をつかんだまま、まっすぐに私を見つめてくる。 「俺だって、大人になったよ。付き合ってなくても、こういうことするような恋愛だってできる」  さっき聞いたのと同じ、息を含んだ低い声だった。強い声だった。それとはまるで正反対に、「何言ってるの」と発した私の声は、情けなく震えていた。いけない、と思った。私はまた、あのときみたいに、思考を止めてしまう――。やめて。一緒じゃないよ。駄目だよ。甘やかさないで。悲鳴のような声は、どれだけ言葉にできたか分からない。謙人くんは、何も言わずに、ただ私を見つめていた。  やがて、私が息しか紡げなくなると、謙人くんが唇を薄く開いた。 「不倫してもいいなんて、そんなことは思わないよ。でも、俺だって、そんなにちゃんと、少女漫画みたいな恋愛はしてない。唯子ちゃんのこと、子供のときから好きだったけど、……その、唯子ちゃんだけを、一途に思い続けてたってわけじゃないし」  謙人くんは少しだけ目を伏せた。謙人くんに、かつて何人かの彼女がいたことは、叔母さんとお母さんを経由して知っている。私が目を見開いたまま何も言えないでいると、「だからさ」と謙人くんが言葉をつなぐ。 「唯子ちゃんは、俺よりも、もう少し大人じゃん。だったら、きれいじゃない恋愛だって、きっとあるから。不倫はよくないけど、でも、唯子ちゃんが、今、後悔してるのはちゃんと分かってる。だから、俺は、全部知っている上で、今も、……唯子ちゃんが好きだよ」  謙人くんの指が、頬に触れた。まるで壊れ物を扱うような優しい手つきで、涙がすくわれた。羽が舞うみたいに、柔らかな感触。心地よい。けれど、それに、――まどろんではいけない。私は深く息を吸った。骨張った大きな手に自分の手を重ね、頬から引き離す。 「唯子ちゃん……?」  次に落ちてきた涙は、自分の手で拭った。私は謙人くんを見上げると、「今日はもう帰るね」と微笑んだ。謙人くんが口を開く。けれど、謙人くんが何か言うより先に、言葉を重ねた。 「大人として、ちゃんと終わらせてくるね」  私の声は、やっぱり少し震えていた。けれど、耳のずっと奥まで、ちゃんと届いた。
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