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密談
「さっきの質問に答えるわね。」
桔梗様が、そっと顔を私の耳元に寄せた。
桔梗様の声が、とろりとした蜂蜜のように私の耳の中から脳裏を巡る。
そして、この世のものとは思えないほど、かぐわしい香りが、私を包み込む。
「貴女に、頼みたいことがあるの。貴女でなければ出来ないこと。私が、ずっと、恋い焦がれていることなのよ。」
言葉の内容と裏腹に、きゅっと握られたその手は、ひんやりとして冷たかった。
ほっそらとした、真珠色の指が、私のぬくもり全てを奪うかのように、私の指に絡みつく。
「お願い・・・・・・・」
再び、桔梗様がささやきかける。
私は、桔梗様の、奥深い所に宝玉が沈んでいるかのように妖艶でいて哀愁を帯びた美しい瞳を、ただ見つめていた。
こんな瞳で見つめられながら哀願されて、断れる人間がいるだろうか?
でも、私は至って平凡な人間だ。
私に桔梗様が求めるものなど、思いつかない。
だけど、その瞳から目を背ける事も出来ない。
私は、桔梗様の手の甲に、敬意を込めて接吻をした。
「そんな瞳で、私を見つめないで下さい。胸が、苦しくなります。私が、桔梗様に差し上げられるもなど、あるのでしょうか?」
「あるわ・・・私、知っているのよ。貴女の、ヴァイオリン。」
私の全身が、ビクッと痙攣するのがわかった。
恐怖が、稲妻のように体の中を、一気に駆け抜けたのだ。
『あの日』の事と、『誓い』は、私の骨の髄まで刻まれている。
それに背くなんて・・・・
桔梗様から目をそらし、うつむいて唇をかみしめる他になかった。
そして、ゆっくりと桔梗様の指を解いた。
「桔梗様。それは・・・・・・・・」
「それは?」
それは・・・・・・・・
それは・・・・・・・・・
佐村との約束だ。
言葉と言葉の軽い「約束」ではない。
それは、命をかけた「誓い」と言っても過言では無い。
「人前では、絶対に演奏しない事」
私が、あの家に居させて貰う為の約束。
居所がわからない、あの女性(ひと)を守る為の約束。
それを、破るなんて事は・・・・・・・・・・・・・
「茉莉花。私を、信じて。貴女は、もう私の愛しい人。何者であろうと、貴女を傷つけさせないし、守り続けるわ。」
「桔梗様。桔梗様を信じて、申し上げます。私が心の底から愛する女性が、ある男に捕らわれているんです。その男は・・」
「知っているわよ、茉莉花。何もかも。貴女の大切な女性の事も。佐村という男の事も。」
私は、「佐村」という名前に、再び、びくっと体を震わせた。
佐村の大きな黒い影が、すぐ背後にいるような気がして、無意識に体が固まる。
恐ろしすぎて、背後を振り返って、確かめる事すら出来ない。
私は、ああ・・・と小さな声を出しながら、桔梗様の胸元にしがみついていた。
「こんなに怯えて・・・かわいそうな、茉莉花」
桔梗様の指が、私の頬に軽く触れた。
その指は、この世のものではないかのように、ひんやりと冷たく、私の心まで凍らせてしまいそうだった。
「あんな男に、貴女を思い通りなどさせないわ。私を信じて。そして、貴女の望みを言って。きっと叶えるわ。」
心臓が、胸の中で跳ね上がりそうな音を立てているのが、聞こえてくる。
私の願いが・・・願い続けていた事が叶うの?
そんな日がくるなんて、思ってもみなかった。
叶わない夢だと思っていた。
叶わないと思いながらも、願わずにいられなかった。
「貴女の『望み』は、必ず叶えるわ。だから、お願い。」
「・・・今?ここで?」
私は、震える声で言った。
その声は、自分の体から発せられた声とは思えないほど、とても低く響いていた。
「そう。今、ここで。」
桔梗様が、私の首にそのほっそらとした白い腕を、優しくまきつけて、一段と耳元に顔を寄せてこられた。
香水の香りが、一段と濃く立ち上る。
ああ・・・・・・きっと、その香りに酔ってしまったのだ。
私は、小声だけれど、再び低く響く声で言い放った。
「佐村を・・」
そこで、言葉が途切れる。
胸の鼓動が小刻みになり、胸が震え、手も震えていた。
冷たい汗が、脇を伝う。
私は、振り絞るように、言葉を発した。
「・・・・亡き者に・・」
桔梗様の目が、より一層妖しく揺らめいた。
「それが貴女の願いなのね、茉莉花」
次の瞬間、私はその腕に抱きしめられていた。
迎えに来た車で、自宅まで送られ、帰宅した時は、もう真夜中を過ぎていた。
いつものように、体の隅々まで外界の埃を落とし、バスローブを纏ったまま、ベッドの上に体を横たえた。
体の表面は綺麗なのに、私の中に閉じ込めていたどす黒く禍々しい何者かが、体の中をのたうち回っているようで、たまらなかった。
でも、これでいい・・
ああ、やっと逢える。
逢えるのよ・・・
あの『ひと』に。
恐怖と歓喜が、体の中をもつれ合いのたうち回る。
こんな気持ちは、すぐに忘れて、眠りたい・・・
ベッド脇のサイドテーブルの引き出しから、ピルケースを取り出す。
白い錠剤の刻印が、正しい事を確認して、それを水と一緒に飲み下す。
アロマキャンドルに火をつけ、密やかな音量で音楽をかけ、部屋の電気を消すと、私はまぶたを閉じた。
「その時」までは、何も考えたくないし、何も感じたくない。
だけど私は渡るだろう。
落ちれば間違いなく死に至る吊り橋を。
落ちるなら、『あのひと』と共に・・・・・・・・
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