葉月

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葉月

暑さも落ち着いてきた、日曜の昼下がりだった。 時折遊びに行く画廊に行く為、大通りを歩いていた。 前方から、大きな荷物を背負って歩いてくる2人組の女性が、目に入った。 背負っているのは、チェロケースと、ヴァイオリンケース。 音楽関係者だろうか? と、かすれちがいざまに、ふわりと漂ってきた香りに、私の心臓が、大きく跳ね上がった。 続いて、余震のように体の隅々に広がる感覚は、もう二度と味わう事はないだろうと諦めていたものだ。 私は、振り返った。 あの2人組からだと、自分でも不思議なくらい、はっきりと確信していた。 間違い無い。 私の頭の中から画廊の事はすっかり消え、警察犬のように夢中で、香りの主である2人の後を追った。 2人とも、似たような黒髪のショートカットに、カジュアルなパンツスタイル。チェロケースを背負った女性の方が、少し背が高くて細身だ。 2人は、黒い外装のビルの地下へと、降りていった。 ライブハウスのようだった。 入り口に、貼られているフライヤーに、目を走らせる。 あった! 弦楽四重奏のフライヤーの、出演者の写真に目をとめる。 男性2人と女性2人の4人で、グループ名は、『Monsun』と書かれていた。 ドイツ語で、「季節風」。 チェロ奏者は、『葉月』という事は、すぐにわかった。 ヴィオラ奏者は、『昴』。 ヴァイオリンは『織音』と『柚里』。 多分、あのヴァイオリンケースの持主は、『柚里』だ。 開場は、15時30分で、開始は16時。腕時計に目をやると、時計の針は、13時過ぎを指している。 時間には間に合う・・・・チケットは?。 階段を降りた突き当たりの扉の前に、カウンターがあり、若い男性がパンフレットを袋から出しているところだった。 「あの・・・」と、私が声をかけると、男性は、「いらっしゃいませ。」 と、答えた。 その声に、外見との違和感を覚えた。 男性に見えるけれど、多分女性だ。 「16時からの演奏を聴きたいんですけれど、席はまだ空いてますか?」「『Monsun』ですね」 「そうです」 「座席フリーで、チケットはまだ残ってます。何名様ですか?」 「1名で」 チケットを購入して、もと来た道を戻る。 歩きながら、胸の奥で、コトコトと、小さな音を立てている私の心臓の音を聞いていた。 「あの時」で、私の心は、とっくに死んでしまったと、思っていた。 もう二度と、誰かの為に愛の曲を奏でる事は無いと、思っていた。 私にはもう、誰かを愛する資格など無い。 ああ、だけど、心の奥からあふれ出る感動を止める事は、もう出来ない。 叫びたいほどの衝動を、ケリーバッグを胸に抱え込むことで、やっとの思いでこらえた。 恋の衝撃波がひたひたと引いていき、落ち着きを取り戻した頃、画廊にたどり着いていた。 少しふわふわとした気持ちのまま、画廊のガラスドアを開けると、馴染みの店主は、白髪の紳士と商談中だった。 目で挨拶をして、ゆっくりと絵を眺めていく。 私は絵描きでも無いし、学生時代の美術の成績は、あまり良い方ではなかった。 だけど、絵を見るのは好きだ。 絵を見ていると、私にだけ聞こえる音楽が、聞こえてくるから。 画家のタッチは指揮棒で、色は音。 著名作家の、ほぼ完成されたオーケストラやソロも良いけれど、若手のエネルギッシュな協奏曲も良い。 それらに耳を傾けながら、絵を楽しむ。 いつもより、その音楽が一段と賑やかで華やかに聞こえる・・・・・。 すれ違いざまに漂ってきたあの香りの余韻が、まだ私の心の中で震えている。 「絶対に、あの2人と親しくなる」という決意を固め、画廊を後にした。 デパートで、小さな花束と、高級チョコレートの詰め合わせを買い求めると、ライブハウスに戻った。  階段の先には、数人の行列が出来ていた。 丁度、重たげな黒い扉が片側だけ開けられ、先ほどの男性のように見える女性と、小柄な女性が、受付をしていた。 チケットの半券を切ってもらい、中に入る。 黒塗りの店内の空気も、むき出しの照明や配管も、私に取っては初めてのものだったけれど、好きになれそうもなかった。 こんな場所で、四重奏をするなんて・・・・ 音楽を志す人が、誰しもコンサートホールで演奏出来るとは限らないことは、わかっていたつもりだったけれど、音の響きを考えると、演奏をするには勿体ない場所としか思えない。 きちんと並べられてはいるけれど、座る椅子も、パイプ椅子だ。 観客は、年配の人もいるけれど、カジュアルな服装の若い人が目立つ。 私のフェミニンなスーツ姿で、しかも1人だけというのは、浮いている事はわかっていたけれど、この場を離れるつもりは無い。 前の方の席は、常連らしい人達で埋まっていたので、その後ろの中心の席に腰を下ろす。 嗅覚も聴覚も、人並み以上に過敏な私には、しばし『苦行』になりそうだけれど、これも大事な「ステップ」だ。 気持ちを切り替え、両面印刷1枚だけのパンフレットに、目を落とす。 ヴァイオリンの女性は、『柚里』だとわかった。 ステージに、4人が現われた。 軽い音合わせをしている間、女性2人の姿を目で追う。 チェロの『葉月』は濃いネイビーのスーツ。 『柚里』は、他の男性2人と同じ、黒のタキシードを着ている。アナウンスが流れ、演奏が始った。 小学生の頃、同級生の酷い演奏で、パニックを起こしたこともある私の耳だけれど、大人になった今は、ある程度のレベルであれば脳の回線の一部を切ることで、落ち着いて聴くことが出来るようになっている。 セオリー通りの四重奏の他に、オーケストラ用の曲をアレンジした演奏へと続いていく。 セミプロながら、チェロの音が、私の心のひだを、優しく震わせる。 演奏をしているときの、ほんのわずかだけれど苦しそうな表情の顔が、とても魅力的に思えた。 男性2人の演奏はまずまず。 『柚里』のヴァイオリンが、少し引っかかりがちなのが気になる。 『葉月』は・・・・・・・技術はともかく、音色がシックで、私の好みだ。 こんな場所ではなく、もっと広がりのある場所で聴いてみたいと思った。 演奏が終わり、常連らしい前列からアンコールがかかり、軽い四重奏が、2曲演奏された。 4人がお辞儀をして、ステージから降りていくと、ばらばらと人が立ち上がり始める。 受付の男性に見える女性に、「花を渡したい」と伝えると、控え室へ案内してくれた。 4人の友人知人とおぼしき人達でごった返す廊下を抜け、控え室をの扉をノックすると、 「どうぞ」 と、女性の声がした。 ドアが開き、足を踏み入れる。 人混みの奥に、4人の姿が見えた。 視線が、私に注がれ、体の中を緊張感が走る。 葉月と、目が合った。 人垣を抜けて、葉月が歩み寄って来た。 雑多な人混みの中でも、はっきりとあの香りを感じる事が出来て、私は、確信と興奮から手を震わせながら 「あの・・・・素敵な演奏、ありがとうございました。これ、気持ちです」 と、花束と、紙袋を差し出した。 「嬉しい・・・ありがとうございます。」 葉月が、とても優しく微笑みかけ、私を落ち着かせようとしたのか、そっと私の手に自分の手を重ねた。 その瞬間、私の中で眩しい光の玉が弾けたような気がした。 間近で見る葉月の顔は、どこか『真世』の面影があるように思えた。切れ長の目と、鼻筋の通った鼻、綺麗なラインを描く程よい厚みの唇。 私よりも、握り拳二つくらい、背が高い。 その体を抱きしめて、その香りを思いっきり吸い込みたい妄想が、脳裏を過ぎる。                          葉月が、同性だという事も、独身かどうかという事も、恋人がいるかどうかという事も、私にとってはどうでもいい事だった。 葉月の存在こそが、私に与えられた『祝福』なのだから。 恋とはそういうものだ。 その日は、4人と、軽い挨拶と握手を交わしただけで帰宅した。 こういう事は、慎重に進めなくては・・・・
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