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真世
佐村の家は、無駄に広く、無駄に大きい。
タクシーを降りて、重厚な正門の横の、小さな扉のカギを開けて、中に入る。
そこから、玄関までが、また遠い。
屋敷は、大きな鷲が翼を広げたような、独特なデザインの建物だ。
正面玄関は吹き抜けのエントランスで、その奥に、100人は収容できるリビングとダイニング、そしてキッチンがある。
リビングは吹き抜けになっていて、三階の客室へと続く階段が伸びている。
どれも、ほとんど使われる事のないものだ。
訪れる客が居なくても、我慢強いメイドが3人、毎日全ての部屋の掃除をしてくれている。
コックは居ない。
ほとんど不在の『主』が、必要な場合のみ、出張料理人が呼ばれる。
右翼側の1階と地下室は、その、『主』のエリアだ。
出来れば、近寄りたくないエリア。
どんなに素敵な出来事があった後でも、右翼側へと続く扉を見るたび、重苦しく黒い翼が私の心を飲み込んでしまう。
私は、正面玄関からではなく、左翼側の入り口から入る。
入り口のエントランスに、エアーシャワールームがついている。
髪の毛を両手で押さえ、左右から吹き付ける風を、全身に浴びて、体についた埃を完全に落とす。
私は、嗅覚と聴覚が、過剰に研ぎ澄まされている。
さっきのタクシーの中の空気ですら、私には不快だ。
そんな私が、他人の匂いと、よどんだ空気に満ちたライブハウスに足を踏み入れるなんて・・・・・・
それにあの、割れた音。
最悪だった。
だけど、それを上回る高揚感が、まだ胸に残っている。
それだけは、どんな風も、吹き飛ばせない。
完全防音の音楽室に沿って続く廊下を歩き、二階へ。
二階の扉を開けると、いつもの、懐かしい香りが私を包む。
「ただいま」
私は、小さくつぶやく。
この部屋の内装も、家具も、香りも、12年前まで、ここに住んでいた女主人のものだ。
「この香りを、消さない事」
それが、佐村の出した条件の一つだ。
そのためにも、すぐに、入浴だ。
無香料・無添加のシャンプーに、ボディソープ。
全身の汚れと、外の世界の「匂い」を、とことん落とす。
あらゆる手段で購入した「無香料」の洗剤の中でも、最も匂いの残らなかった洗剤で洗濯したタオルで、体を拭く。
バスタオルは、最高級のオーガニックコットンだ。
体を拭き終えると、ステレオシステムの、レコードプレーヤーの蓋を開け、レコードに針を落とす。
私の耳は、CDの薄っぺらい音を受け付けない。
重厚な、ヴァイオリンの音がスピーカーから流れるのを聴きながら、今朝、メイドが取り替えたばかりのシーツに、裸のまま横たわり、目を閉じる。
葉月の、姿が、まぶたに浮かぶ。
あのネイビーのスーツの下に隠された体を、抱きしめたい。
体の、あらゆる部分の香りを、嗅ぎながら、愛撫したい・・・
私の妄想は、膨らむばかりだ。
この、いわゆる豪邸に住んでいるのは、この世で一番偉いのは自分だと思い込んでいる、破滅主義の暴君と私の二人だけ。
それから、私が子供の頃からほとんど容貌の変化の無い、年齢不詳の男性がひとり、離れに住んでいる。
この男性が、何をしている人なのかは、未だに謎だ。
いつも黒い服に身を包み、背が高く痩せているが、姿勢が良い。
瓜実顔の青白い顔は、女性的で、無表情。
ほとんど見かける事は無いのだけれど、屋敷の中の思わぬ場所で、出合う事がある。
私を見ると、
「ごきげんよう、お嬢様」
と、低く腰を屈めて丁寧な挨拶をするのだ。
子供の頃は、それが不気味で、本当は「人間では無いもの」ではないかと思っていた。
私が産まれたのは、この家ではない。
ここからさほど遠くない団地で、平凡に、家族と暮らしていた。
そして、いつも、この家の前を通って、幼稚園に通っていた。
下校しているときに、朝には聞こえなかった、ヴァイオリンの音色がいつも流れてきて、その音色に惹かれて、私の足取りは遅くなり、時には立ち止まって聞き入ってしまっていた。
その当時は、その心地良い音色が、ヴァイオリンという楽器だとも知らなかったし、私の家は中流家庭で、音楽だとか芸術だとかとは全く無縁の環境にいた。
だけど、その音色が忘れられなくて、聞きたくて・・・・幼稚園が休みの日曜日に、一人で出かけていった。
長々と続く高い塀に、固く閉ざされた大きな門。
屋敷は、静まりかえっていた。
私は、門の横に座ると、じっとあの音色が流れてくるのを待っていた。
どのくらい待っていただろう・・・・
今も、はっきりと覚えている。
かちゃりと音がして、大きな門の横の、大人が一人通れるくらいの門が開き、綺麗で、優しげな顔の女性が現われた。
「どうしたの?迷子になったの?」
「ここに居ると、聞こえるの。綺麗な音」
そう答えた私を、笑顔で招き入れてくれたのが、佐村の妻の、真世だった。
広い庭を横切る、玄関までの道が、随分長かった事を覚えている。
団地住まいだった私は、屋敷の広さと、調度品の数々に、ただただ驚いた。
長い廊下を通り抜け、屋敷の南側の部屋が音楽室だった。
その部屋は、屋敷の中とは全く違う「香り」がした。
当時は、騒音にうるさく言う人もいなかったし、旧家の佐村家に苦情を進言するような、大それた人もいなかった。
あの、素敵な音は、何なのだろう・・・・
子供心に、それを知る事が出来る喜びと期待に、胸をときめかせていた。
ふかふかの大きなソファーや、クラシカルな椅子、長い月日を経た壁や天井、どれも私には心地良いものに思えた。
何よりも、真世の事が、初めて見たときから大好きだった。
産まれて初めて見る、ヴァイオリンという楽器。
真世は、短い曲を奏でてくれた。
その音色は、この世のものとは思えないほどあでやかで、まだ幼い私の心さえも震わせた。
真世の演奏に聞き入り、演奏が終わっても、その余韻に頬を染めてぼぉっとなっている私に、真世は、ふっと笑いかけた。
私は、思わず、さっき聞いたばかりの曲のフレーズを、「ら」で諳んじた。
真世の笑顔が、驚きに変わった。
真世が母に電話をかけ、母が屋敷に飛んできた。
躾に五月蠅く、いつも怒ってばかりの母が、真世の前でしどろもどろになっている姿がおかしかった。
それから、毎日、私は真世にヴァイオリンを習いに通う事になった。
両親が買ってくれた子供用の練習用のヴァイオリンを使っていたのは、ほんの少しの間だけだった。
「本当に良い物を、あなたには教えたいの。」
受け取ったヴァイオリンは、子供の私でも、練習用のものとは全く違うものに見えた。
そして、とても愛おしい気持ちになった。
そっと、頬を押し当てる。
そんな私を、
「あなたが死ぬまで、このヴァイオリンを愛する事を誓いますか?」
真世は、深い色をたたえた瞳で私を見つめた。
私は、数ヶ月前に出席した、教会でとりおこなわれた親戚の結婚式を覚えていた。
司祭にそう言われた、新郎新婦が答えたとおりに私も答えた。
「はい、誓います」
真世から渡されたヴァイオリンは、最初は耳障りな音しか出してくれなかったけれど、すぐに、素晴らしい音色を奏でてくれるようになった。
ヴァイオリンに、そして真世に、私は夢中になった。
真世は、幼い私の短い人生の中で出合った事の無い、大人の女性だった。
ごく自然で、それでいて優雅な立ち振る舞い。
綺麗で優しい、声と言葉使い。
何よりも、真世から漂う香りが、大好きだった。
石鹸とも、柔軟剤とも、父の使うオーデコロンや、母が外出の時につけるきつい香りの香水とも違っていた。
真世に抱きつき、その香りを胸一杯に吸い込むだけで、自分は今この世で一番幸せだとさえ思った。
真世の部屋で、出されるお菓子も、飲み物も、今まで自分が口にしていたものが何だったのかと、疑問に思うほど美味しかった。
自宅は団地なので、演奏は出来ない。
母親が仕事から戻るまでの時間と、土日が、待ち遠しくて仕方が無かった。
私にとって、人生の中で今も輝き続ける、幸福な日々・・・・・・・
真世との時間が幸福すぎるほどに、自宅にいる時間と、学校にいる時間が苦痛でたまらなかった。
幼い私は、帰宅時間が迫ってくると、真世に膝にしがみついて、「帰りたくない」と、駄々をこねて真世を困らせた。
真世の子供になりたかった。
真世の本当の子供に、嫉妬のような気持ちを抱いた時期もあった。
真世には、3人の子供が居た。
3人とも私よりも年上で、息子が一人と娘が二人。
もう、顔も覚えていない。
うっすらと、一緒に楽器の演奏をした記憶がある。
じきに、姿を見ることは無くなった。
真世の家に比べると、自宅は質素で、みすぼらしいものだった。
両親は教員だった。
私は、口うるさい両親が、好きでは無かった。
父親は癇癪持ちで、大きな声怒鳴られる度、私は耳を塞ぎ、身を屈めて丸くなった。
母親は、その当時は、「言う事をきかない子供には体罰」を与えて当然と思っていた。
些細な事で、よく体罰を加えられた。
両親共々教職という事もあり、学校の成績が少しでも落ちると、酷く責められた。
特に酷く叱られて日の翌日、家に帰りたくなくて、学校の成績の事で母親に体罰を加えられた話しを、真世にした。
それから、真世は、まず私の宿題と予習復習をさせ、それからヴァイオリンの練習をさせるようにした。
私は、早くヴァイオリンが弾きたくて、必死で勉強した。
それから、テストで100点を取るのは当たり前になり、両親が教職という事で、「優等生」というラベルが、めでたく私に貼り付けられた。
私が有名私立中学に入学した時に、両親は、自分たちの指導のたまものだと信じ込んでいるのが、内心、ひどくおかしかった。
両親は、私を束縛するだけに、存在する人達。
教師は、過剰に私に期待をするだけで、何もしてくれない人達。
学友は、私と違う呼吸方法で生きている、理解し合えない人達。
どうして、私を取り巻く世界は、こんなにも息苦しいものなのだろうか?
真世とヴァイオリンは、私の心を解放してくれた。
奥底からわき上がるものが、『情熱』というものだと、真世が教えてくれた。
自分のヴァイオリンの才能は、特別だと言う事を、演奏会で知った。
だけど、真世は、私をコンテストなどで、人前に出す事は無かった。
私は真世の香りに満ちた部屋で、真世と一緒に過ごす時間を共有出来るだけで、心は満たされていた・・・あの日までは。
私が中学1年生の時だった。
いつものように、ヴァイオリンを奏でていると、真世がヴィクトリアン調の布張りのカウチソファーに体を横たえ、目を閉じた。
顔の黄金比そのままの、美しい顔。
閉じられたまぶたの、長い上向きのまつげ。
クレオパトラよりも上品な、つんと高い鼻梁。
艶やかなな唇は、ややぽってりとして、いかにも柔らかそうだ。
白い首筋から、白いブラウスの襟ぐりからのぞく旨の谷間、そして、胸の膨らみ。
なだらかな孤を描く、腰。
それらに視線を這わせるうち、自分でも音が変わっていくのがわかった。
真世はそのまぶた開くと、私を手招いた。
真世の目は、いつになく潤み、熱を帯びていた。
その瞳の深淵に引き込まれるように、私はヴァイオリンを置き、真世の横に腰掛けた。
言いしれぬ緊張感が走り、訳も無く胸が震えた。
真世の白い胸に顔を埋め、その香りを、肺細胞の隅々まで行き渡らせるかのように、深く吸い込んだ。
ああ・・・・・・・・・・・・・・
ずっと、こうしたかったんだ、私。
互いの仮面を剥いで、産まれたままの姿で絡み合う。
互いの体のぬくもりを、白雪のような柔肌に移しあう。
互いの『スイッチ』を、優しく指先や舌で探り合う。
互いの体は、互いの楽器。
私は、すぐにその『二重奏』に夢中になった。
私たちの指は、特別だ。
小さい時から練習したせいで、左手の指が右手の指より少し長い。
そして、何度も何度も弦を押さえるから、左指先が大きく膨れてる。
その指で、ほころび始めた蕾を弾き、体の奥深くに沈める度、二人とも抑えた声で歓喜の声であえいだ。
この世界に、こんな素敵な事があったなんて!
私たちは、文字通り『薔薇色の日々』を過ごした。
ヴァイオリンを演奏し、愛し合う・・・・・・・・
大きな鳥の羽を広げたような大きな屋敷の、左羽の屋根の下で。
屋敷の『主』の恐ろしさも知らず、時を、愛をむさぼりあった。
永遠に、その幸せが続くと思っていた。
少なくとも、私だけは。
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