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佐村
真世と愛し合うようになってから、真世は、時々、私を抱きしめながら泣くようになった。
「愛してるわ・・・」
そう言いながら、私の髪の毛や、おでこや、頬や、手に、キスの雨を降らせながら、ぽろぽろと涙を流していた。
「あの人は、恐ろしい人よ。こんな事が知れたら、きっと私は殺されてしまう。本当よ・・・それよりも、貴女に何かするかもしれない・・考えるだけで怖くてたまらないの」
そう言う時の、真世の唇も体も、震えていた。
真世をこんなに怯えさせるものを、どうすればいいのか、どうしたら真世を守れるのか私には思いもつかず、ただ、体を抱きしめる事しか出来なかった。
真世の夫が、世界的に有名な指揮者で、とてもお金持ちで、留守がちだという事は知っていた。
実物を見たことが無かったので、恐ろしい人であるという実感が無かった。
真世が、そんな恐ろしい人の妻だという事も。
『不倫』とか『不義』という言葉は知っていても、自分が、そういう事をしているという実感も無かった。
二人の関係を知る、メイドもあの怪しい紳士も、佐村が恐ろしくて密告ができないという事に気づきもしなかった。
そして、あの『事件』が起きた・・・・・・
真世の事を、今でも愛している。
もう私を、抱きしめてくれる事も、体中を愛撫する事も、一緒にヴァイオリンを演奏することも無い。
「あの事件」があって、二度と、こんな気持ちになれるとは思っていなかった。
葉月の香りに、出合うまでは。
葉月の香りを思い出し、私は自分の両肩を、自分の腕で抱きしめる。
葉月と抱き合う事を、心の中で思い描く。
真世が、私に愛してくれたように、葉月が私を愛し、私が真世を愛したように、葉月を愛する事が出来たら!
その妄想を断ち切るかのように、スマホの着信音が、鳴り響く。
「ピアノソナタ第8番 ハ短調作品13」 通称「悲愴」と呼ばれる、ベートーベンのピアノソナタだ。
発信主は、この着信音を聞くことは無い。
「何をしていた?」
いつ聞いても、大きく響く、そして耳障りの悪い声だ。
「別に何も」
「いつもより増して盛況で、滞在が遅くなった。日本の記者も来ていたな。新聞は見たか?」
「新聞は読まないし、テレビは無い」
「そうだったな。まあいい。フランス女も悪く無いが、しつこくて困る。練習をみてやるから、これから来い。」
帰っていたのか・・・
「・・・・・・わかりました」
電話を切り、小さくため息をつくと、私は身支度に取りかかった。
再び、「汚れる」為に・・・・・・・
佐村の部屋から戻った私は、全身を洗う。
特に、「中」は、念入りに。
そして、佐村から渡された、香水瓶を体中に吹きかける。
真世の香りが、立ち上ると共に、真世の手が、まるで私を抱きしめるかのような錯覚に囚われる。
ああ・・・・・・・・
私は、真新しい真世の香りを、肺いっぱいに吸い込む。
真世のこの香りは、フランスで特別に配合されたもので、そこでしか手に入らない。
私を抱く度、佐村が、1本づつそれをくれるのだ。
ベッドに横たわり、腕を交差して両肩に手をやり、自分で自分を抱きしめる。
そうやって、私は、真世への愛しさに、涙する。
真世は、確かに生きている。
だけど、もう・・・・・・・・・・二度と、私を抱きしめてくれる事は無いのだ。
友も無く、両親を愛する事も出来なかった私が、唯一無二の存在として、崇拝する女性。
その存在を、これからも、消すこと無く、共に生き続ける。
体と体を、触れあわせる事無く。
それが、私の宿命なのだ。
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