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黒服の紳士
柚里が、もう少し一緒にいたい・・・と言ったけれど、私には、「しなくてはならない事」がある。
私も、とても残念なのだけれど。
名残惜しそうに私を見送る柚里に、「また連絡するわね」と言い、タクシーで帰宅する。
いつもと同じ儀式で、全身を清めたあと、体に香水をふり、バスローブを着たままベッドに体を横たえる。
「真世の香り」が立ち上り、真新しいシーツとフェザーの羽毛を使った肌掛けに香りを移していく。
フランス製の老舗ベッドメーカーのベッドマットは、数十年を経ても、へたることなく、しっかりと私の体を支える。
体を清め、部屋に戻り、真世の香りに包まれていても、体には、柚里との情事の後のけだるさが残っている。
あのまま、一緒に時間を過ごして・・・夕食を共にする気持ちにはなれなかった。
柚里自身からは、葉月と同じ香水の香りはしたけれど、「葉月の残り香」は薄かった。
あの部屋だから、あんなにも柚里を愛おしく思えたけれど、外へ食事に出かけて、葉月の残り香から離れたときに、柚里に対する気持ちが壊れてしまいそうな気がしたから。
もう少し、あの部屋の「残り香」を感じながら、柚里との愛の行為を続けたい・・
葉月の残り香が消えるまで。
柚里の気持ちを、いずれは拒否する日が来る事は、わかっている。
わかっていて、肌を重ねる事について、それほど罪悪感を抱かない自分を、自分勝手だと、柚里は責めるだろうか?
そんな「常識論」が、私のストッパーになるとは、これっぽちも思ってないくせに、普通の人のような事を考えてしまう自分がおかしい。
「しなくてはいけない事」があるのは、本当だ。
「しなくてはならない事」というのは、ヴァイオリンの練習とランニングと・・・夕食を食べる事。
ヴァイオリンを長時間弾き続ける為の体力をつけるために、ランニングは欠かせない。
それは、ヴァイオリンと出合ってからの、私の日課。
体を起こし、練習曲をレコードで流す。
今度は、いつも真世が横になっていた、ロココ調の曲線が美しい、アンティークのカウチソファーに体を横たえ目を閉じる。
音を拾い、それを頭にインプットしていく。
音階を拾うのは、絶対音感を持つ私には、空気を吸うのと同じくらい簡単な事だけれど、細かいテクニックのイメージを描く為に、他の人の演奏を聴く事は必要だ。
そのイメージ通り・・・いや、それ以上の細やかな技巧は、日々の練習で培われる。
毎日、多い時で6~8時間。少ない時でも2時間の練習を続けてきた。
真世という指導者が居ない今、私は自己レッスンをするしかないけれど、それは苦では無い。
「貴女は、ヴァイオリンの天才よ」
と、私の演奏に感動した真世に、抱きしめて頬ずりされた時の喜び・・・
私にとって、真世への愛と、ヴァイオリンへの愛は、決して切り離すことは
出来ない。
その二つが、美しい宝石となり、私の命と共に輝き続ける限りは。
夕食を挟んで、ヴァイオリンの演奏の練習をする。
技巧的な基礎はマスターしているつもりだけど、
「楽譜通りに弾く」
という事は、簡単なようで容易でない。
プロの演奏を聴きに行くこともあるけれど、今まで自分を越える演奏をしている人に出合った事が無いから、私の勉強にはならない。
私の道しるべは、作曲家が書き記した楽譜・・・・・それだけだ。
練習に練習を重ねて、その先にあるものが何なのかはわからない。
ただ私は、私にヴァイオリンがある限り、真世が生きている限り、弾き続ける。それだけだ。
例え、有名コンクールに出たとしても、佐村に握りつぶされる事は、容易に想像出来る。
それに、あのとき、誓わされた事のひとつ・・・
「人前で演奏しない事」
これを守らなければ、この部屋を追われる。
真世の香りが残るこの部屋を離れる事は、私にとって、死ぬより辛い事だ。
ヴァイオリンの手入れをして、ケースにしまうと、ランニングの服装に着替えて外に出る。
まだ冬の名残が残る、ひんやりとした空気の中を走る。
肺に入る冷たい空気が、心地良い。
子供の頃からの習慣だから、決まったコースを、ほぼ同じ時間で走りきる。
家が近くなると、呼吸を整えながら緩やかに速度を落とし、タオルで汗を拭う。
家に入ると、玄関まで緩やかなカーブを描く道があり、その脇には足下を照らす照明が、淡い光を繋いでいる。
石畳の上を歩いていて、前方から、人影が近づいてくるのが見えた。
あの、「黒服の紳士」だ。
私の足の速度が、ゆるゆると緩み、そして止まった。
いつもの黒ずくめの服装が闇に溶け、ほのかな灯りに見える顔だけが白い。
「こんばんは、お嬢様。ご機嫌如何ですか?」
「こんばんは・・・」
今まで、それ以上の言葉をかける事をためらってきた。
今日も、そうだ。
言葉が、すぐに出てこない。
尋ねたいことは、私の中で、マグマのように熱くたぎっているというのに・・
黒服の紳士は、頭を下げて私の横を通り過ぎていった。
「待って下さい」
私は、思い切って、声をかけた。
黒服の紳士は、ぴたりと歩みを止めた。
「あの・・・・あの・・・真世は・・・奥様は、お変わりないですか・・?」
語尾が震えてしまうのを、堪えきれない。
それほど、ずっと私の中で、何百万回も巡り巡り続けた言葉だ。
言いたくても言えない言葉を、もう何年抱えてきたことか・・・
その気持ちを、やっと言葉にした時、私を襲ったのは「不安」と「恐怖」だった。
ずっと体の中を巡ってきた感情の、何百万の一くらいを、短い言葉に乗せただけで、私の声と体は震えていたのだ。
そんな私の気持ちを、ガシャリと音を立てて遮断するかのように、
「お変わりないです」
何の温度も感じられない声が、静かに響いた。
「あのまま?」
「あのままでいらっしゃいます。」
「お願いです。」
私は、思わず、黒服の紳士のコートの肩に手を触れた。
その行為が、驚かせてしまったのか、コートの肩がびくっ!と動き、慌てて私は手を引いた。
「『お願い』をされても、私が、お嬢様にして差し上げられることは、何もございません」
冷ややかな声・・・だけど、初めての会話らしい、言葉のやり取りだ。
私は、必死の思いで言った。
「では、部屋に・・・私の部屋に来て貰えませんが?」
「あの部屋に、私が入る事は禁じられております。失礼します」
黒服の紳士の姿が、闇に溶けるようにして去って行くのを見送る私の頬に、涙が伝う。
どうすれば、また真世に会えるのだろうか?
佐村が許してくれるはずがない事はわかっている。
だけど、会いたくて会いたくてたまらない。
私だとわからないなら、それでもいい。
一目だけでも、真世に会いたい・・・・・・・
真世の居ない生活が、このまま死ぬまで続くのだろうか?
ううん、絶対に、私は諦めない。
佐村が死ねば良いのだ。
あの、悪しき主がこの世から消えてしまえば・・・
東側の建物を見上げ、その主を心の底から呪わずにいられなかった。
私は、いつかきっと、真世を取り戻す。
絶対に。
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