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誘い
柚里から、何度か目の「誘い」を受けたとき、「桔梗さんのお店に行きたいわ」と、答えた。
柚里は、喜んで、エスコートしてくれた。
お店に入る手順は、いつも通り。
平日のランチタイム。
テーブル席は、満席だった。
お店がお店だけに、平日のランチタイムは、既婚者らしいカップルが目立つ。
男性と結婚していても、女性の恋人を作る・・・それも立派な「不倫」。
でも、この世から、男女の不倫が消えないように、そんな関係も消える事無く、日陰で花を咲かせ続けているのだ。
「悪い、テーブル席が埋まってるんだ。カウンター席で良かったら、食べて行ってくれないか」
柊が、声をかけてくれた。
「カウンター席でいい?」
柚里に尋ねられて、ええ・・と答えると、音も無く横に立っていた、雪花ちゃんが、私の服を引っ張った。
大きな潤んだ瞳が、私を、無言で見つめる。
「雪花ちゃん、どうしたの?」
その瞳は、私を見ているようで、どこか焦点が合っていないようにも見える。
「多分、桔梗様が呼んでらっしゃるんだよ」
柚里にメニューを渡しながら、柊が言った。
あ・・そうなんだ・・・
柚里に、目で合図を送ると、折れそうなくらいに締め上げたコルセットの、砂時計のようなシルエットの後を、無言でついて行く。
店の奥にある扉の向こうにある階段を上がると、黒くて重々しい鉄の扉が現れた。
雪花ちゃんが、扉の横にある小さなタッチパネルのテンキーを指で押さえると、かちゃり・・・と音がした。
扉が開くと同時に、『ジャンポールゴルチェ』の香りが、一瞬で私の体にまとわりつく。
その中に、引きずり込まれるように、足を踏み入れた。
大理石の床の向こうに、また二つの扉が見えて、どちらの扉にも、黒光りしているドアノッカーがついていて、左手の方を、雪花ちゃんが叩いた。
暫くして扉が開き、妖艶なたたずまいの桔梗様が、姿を現した。
ぴったりとした黒のレースに、赤いレザーのビスチェ。
下半身に絡みつくようなレースのドレープが裾まで続くタイトスカートに、黒いレザーのピンヒール姿に、私は一瞬息を飲んだ。
もう、何度もお逢いしているにも関わらず、お逢いする度、心の奥が疼くような思いを抱いてしまう。
男性だけでなく、女性でも、桔梗様のような心の中の劣情を刺激する雰囲気の女性には、かつて出合った事はない。
「いらっしゃい、茉莉花」
真紅の口紅に彩られた唇から、私の名前がこぼれ落ちる。
「こんにちは、桔梗様」
そう答える私の体を、いつもと同じように、桔梗様が抱きしめる。
そうされると、体の芯から、痺れるような感覚が広がる。
「そんな顔をしないで・・・思わず、キスの雨を降らせたくなるわ」
桔梗様に言われて、自分がどんな表情で桔梗様を見上げたのかと思うと、恥ずかしさに、うつむいてしまうしかなかった。
「柚里を、受入れたのでしょう?」
そう言う桔梗様の声は、いつもと変わらない、低いトーンの落ち着いた響きだった。
受入れた・・?
そういう事になるのだろう。
柚里は、そう思っている。
私も、柚里に肌を許した。
だけど・・・・・・・
「わかっていてよ。貴女という人は、本当に・・・・・」
「桔梗様・・私・・本当は・・」
「良いのよ、言葉にしなくても。」
桔梗様には、わかってらっしゃるのだ。
私の気持ちが誰にあって、そして、その気持ちを隠して、あえて柚里に身を任せる業の深さを。
柚里から愛される事が、辛い。
その辛さが、尚更、葉月への愛を深める。
葉月への愛が深まるほど、忘れてはならないあの人の事を思い出し、その罪深さにまた葉月を求め・・・
延々と続くループは、私の心をきりきりと縛り上げ、小さな悲鳴を上げさせる。
その、小さな悲鳴が、きっと、桔梗様には聞こえるのだ。
桔梗様の香りと、私の香りが交わるほど、抱き合い、そして体を離す。
足下に、見事な宝石で飾られた小箱を、赤いベルベッドのトレイに乗せた雪花ちゃんに気付く。
桔梗様は、その小箱から、薄紫色のカードを取り出し、紅に染めた長い爪の指で挟むようにして、私に手渡した。
「ちょっとした、パーティーを開くの。気分が変わるわよ。でも、柚里には言わない方が良いわね。招待するのは貴女だけだから」
私は、吸い込まれそうなほど深い漆黒の、妖しげな光をたたえた桔梗様の目を見て、ゆっくりと頷いた。
店内に戻り、柚里の隣の席に着くと
「桔梗様は、何の用事だったの?」
と、柚里が興味津々の顔で尋ねてきた。
「たいした事では無いのよ。少し、世間話をしただけ。」
嘘を上手につけないで済む人生を送ってきた私は、当たり障りの無い言葉しか浮かばなかった。
「やっぱり!桔梗様は、茉莉花がお気に入りなんだよ。じゃないと、世間話とか挨拶程度で、上の部屋に呼んだりしないよね?ね?」
柚里は、少し興奮気味に、前菜を運んできた柊に言った。
柊は、少し首をかしげるような仕草をしながら、「そうかもしれないな・・」と、フェイドアウトするように、すぅっとキッチンの中に姿を消していった。
柊は、きっと、桔梗様が私を呼んだ理由を知っているに違いない。
そして、私と同じで、嘘をつくのがあまり上手じゃ無いのね・・・・
前菜も・・・旬野菜のサラダも、コーンポタージュも、メインのベーコン巻きハンバーグも、とても美味しかった。
どれも、高価な材料を使ってないけれど、素材の良さが伝わる優しい味だった。
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