47人が本棚に入れています
本棚に追加
「地ノ果テ」 その二
「……」
彼らが誰のことを言っているのかは分かった。
たしかに、私には妻がいた。無実の妻を受け入れなかった、『人間関係』というものを憎み、そのものを破壊する行為に及んだ覚えならある。
だが、それでも妻は戻らなかった。むなしい行いだった。
私が未だに生きているのも、むなしいだけだ。
その妻が生きているかのような甘い夢。悪魔の手口にしては、ずいぶん稚拙…。
「だーかーらー、オレたちは悪魔の手下じゃねぇって、何べん言えば分かるんだよ!」
「良かった…。お父様は、ママのことを忘れたわけではないのですね…」
「今のやりとりの、どこに感動して、うるうるできるんだよ!」
「だって…お父様はママのことを忘れていなかったのよ? もうずっとはるか昔に亡くなったママのことを、今でも覚えているなんて、ステキじゃない?」
「覚えていて、当然だろーが! じゃなきゃ、何のためにオレたちが来たんだよ!」
「とにかく、これでお父様が間違いなくお父様であると証明されたわけです。もはや、疑いの欠片もなくなったわけです。これが喜ばずにいられると?」
「あー、そうだな。とんでもねー、大罪人の、オヤジが見つかった。はい、めでたしめでたし」
「もう、セイったら…せっかくお父様に巡り合えたというのに、どうして素直に喜べないの?」
「オレは好きでこんなヤツを探したワケじゃねぇよ。母様がどうしてもって言うから、仕方なくやって来たってのに、コイツ、未だにオレたちのことを信じてねぇんだぜ?」
「気にしないで下さいね、お父様。セイはママのことが大好きなので、嫉妬しているだけなのです」
「オイ!」
「確かに、信じていただけないのは、わたくしも悲しいですけれど…お父様の立場を考えれば、いたしかたありませんわ。いきなり押しかけて、こうして会うのも初めてですもの。無理もありません。しかし、心から信用していないならば、わたくしたちをこうして、お住まいに招くこともなかったハズですわ」
「…信用も何も、どうでもいいことだ。君たちが悪魔の手先だろうと、そうでなかろうと、私にはどっちでもいい。それだけだ」
「ほら、見ろ。こーゆーヤツなんだよ。どーでもいい、だとさ。母様だって、こんなヤツと一緒にいたから…」
「セイ。それは言い過ぎですわよ」
「けどよ…!」
「ママに失礼ですわよ。ママは、お父様を選び、愛しているからこそ、わたくしたちをお父様の下に遣わせたのです。あなたは、ママのお気持ちを侮辱するつもりですか? ママに逆らうおつもりですか?」
「…そんなつもりじゃ…ねぇけど…」
「なら、よろしい」犬のようにうなだれるセイの頭を、アリスは笑顔で撫でながら、私に向き直る。「…とはいえ、いつまでもわたくしたちをお疑いになられては、わたくしたちもお役目を果たせません。お聞きの通り、わたくしたちがお父様の下にやってきたのは、ママの気持ちに他ならないのです。それをいつまでもお疑いになられては、わたくしたちはもちろん、ママにとっても悲しいことです。お父様の、ママへの愛を疑うつもりはありませんが…ママの、お父様への愛を疑っているのは、非常に悲しいことです。そして、一方通行の愛ほど、悲しいものはありません。そうなると、お父様が本当にママを愛しているのかさえ、疑わしいものとなってしまいます。もちろん、お父様の愛する心は確かだとしても、愛されていることに気づかないとなれば、お父様は一体、何を愛しているのでしょう?」
「…彼女はいない。もう、どこにもいない」私は立ち上がり、テントの戸を開く。「眠っているんだ。もう、痛みも、苦しみもない。安らかに、眠っているんだ。だから、彼女の名前を語ったりしないで、そっとしておいてやってくれないか?」
「あー、そうだよ。テメェと違って、痛みも苦しみもねぇんだよ。だから、いつまでも生きているテメェを解放してやろうと思って、やって来たんだよ。このバカオヤジ!」
「……」
「…ママは、いつだってお父様を愛して、見守っておられました。お父様がどんな罪を犯そうと、お父様がママを愛したように、ママもお父様を愛しておられるのですよ? それなのに、お父様はママに愛されていないと、本当にお考えなのですか?」
「もー行くぞ、アリス。こんな分からず屋の、どーしよーもねぇヤツ、望みどおり放っておけよ。母様の使命は、十分果たしたハズだぜ?」
「…そうですわね。お父様が信じないのならば、仕方ありません。残念なことですが、お父様にはママの愛が必要なかったということでしょう。それならば、話すだけ時間の無駄ですわ」
「……」
ふたりの子供は、そう言ってテントを出た。
そして文字通り、夢のように消えてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!