第四節

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第四節

長屋の木戸門をくぐると、月星丸はすぐにおばちゃんたちに囲まれた。 「あらあらどうした? 手当てしてあげるからちょっとこっちに来なよ!」 仕事の手を止めて、複数の女どもに囲まれる。 騒ぎを聞きつけた他の長屋の住人も顔を出した。 「千さんに助けてもらったのかい? よかったねぇ」 月星丸は黙ってうなずいた。 そのまま野次馬どもに囲まれて、されたいように手当てをされている。 あれこれと話しかけられる住人からの慰めやねぎらいの言葉に、ついに月星丸は微笑んだ。 「笑ってる場合か! さっさと飯にしろ!」 俺がそういうと、月星丸は皆に礼を言って笑顔で手を振った。 その場にいた全員が手を振り返す。 その様子に、俺はまた痛む頭を抱えた。 部屋に戻った月星丸は、うれしそうに鼻歌を歌いながら漬け物を切っている。 櫃に移した冷や飯を茶碗によそうと、先に膳を俺に差し出した。 「俺も食っていいか?」 「あぁいいよ!」 俺は怒鳴るように答えておいてから、出された飯を勢いよくかき込む。 月星丸は自分の茶碗を膳に乗せて居間にあがると、うれしそうに飯を口にした。 「お前、生まれはどこだ?」 先に平らげた俺は、ゆっくりと白飯を食む月星丸に目をやる。 「この世のどこかだ」 彼は静かに米を嚙んでいた。 「聞かぬのではなかったのか?」 「あぁそうだったな、忘れてたよ!」 俺は降参のため息をつくと、ごろりと横になって背を向けた。 それ以来、気がつけばすっかり長屋に馴染んだ月星丸は、起床から就寝まで実に規則正しく健康的な生活を送り、それを不規則きわまりなかった俺にまで強いた。 日の出とともに起き上がり、井戸端で女に混じり飯炊きの準備をすると、笠を編む俺の姿を飽きることなくながめている。 「おい、月星丸! ちょいとそこまで、よもぎをとりに行かないか?」 近頃にいたっては、仲の悪かったはずの長屋の子どもまでが、遊びに誘いにやってくる。 うれしそうに俺を振り返り許可を求める月星丸に、俺は完全に負けを認めた。 「勝手にしやがれ」 「じゃあな千さん、日暮れまでにはちゃんと連れて帰ってくるからよ」 うれしそうに仲間と駆けだしていく背を見送って、俺は編みかけの笠を放り出した。 月星丸が来て何日が経った?  結局あいつに流されているのは、俺自身のような気がする。 奴が本当に望むのなら、まぁここにいたって構わない。 一緒に住むのはゴメンこうむるが、この長屋にも他に空いている部屋がないわけでもない。 大屋である万屋に頼めば、ここでなくてもどこかに住む場所の手はずは整えてくれるだろう。 だけど、それでいいのか?  ぐるぐるといくら考えをめぐらせても、答えは出ないし、奴にも出て行くつもりはない。 どうしよう、どうしようか。 俺自身はどうしたいのか、久しぶりに一人になった今、よくよく考えてみる。 まぁ俺としては、今の生活は悪くないと思っている。 特に気を使うこともなければ困ることもない。 奴は長屋の住民ともすっかり打ち解けている。 月星丸は控えめで地味な性格だが、意外なところで根性がありしぶとい。 そのしぶとさが、自分の家に戻りたくないがための振る舞いであることは、分かる。 俺は寝返りをうった。 本当に奴は戻らないつもりなんだろうか、このまま逃げ切るつもりでいるのか。 どう見ても良家の坊ちゃんであることは間違いなく、俺にはいつか必ず迎えが来るように思う。 だとしたら……。 俺は起き上がった。 つかの間の自由を謳歌している間ぐらい、好きにさせてやるべきなのか、それともこれ以上の情がわく前に帰してしまった方がいいのか。 長屋の皆だけではなく俺自身も月星丸に対して……。 俺は慌てて頭を横に振った。 何を考えているんだ、万屋の裏家業を引き受けている以上、俺だっていつどこでどうなるか分からない身だ。 最期をみとってくれる人間は、万屋だけでいい。 放り投げた作りかけの笠を、もう一度手に取る。 出来上がった笠が、部屋の隅に積み上がっていた。 そろそろまた、売りに行かないといけねぇな。 今度はちゃんと、俺も一緒について歩こう。 編み笠の材料であるヒデの束を手に取る。 それを交互にならべて組み合わせると、俺は次の笠を編み始めた。 がらりと入り口の戸が開く。 「ただいま!」 月星丸がよもぎの束をつかんで戻ってきた。 「おう、案外早かったな」 「うん、もう他のやつらが摘み取っていった後だったから、あんまり残ってなかったんだ」 月星丸が一緒に出かけた長屋の子どもたちの話しを延々と始めるのを、俺は黙ってうんうんと聞いている。 にぎやかになったもんだ。 今までどうやってここで暮らしていたのか、そんなことさえ思い出せなくなっているような気がする。 ふいに、月星丸のおしゃべりが止まった。 「なぁ、俺にも笠の作り方を教えてくれよ」 土間からようやくわらじをぬいで居間にあがり、俺のすぐ隣で手元をのぞき込む。 「俺も編んでみたい!」 俺は腰を軽く浮かせて場所を譲ってやった。 月星丸はうれしそうに、編みかけの笠を手にとる。 「これを順番に通してくのか?」 「そうだ」 ずっと俺の手元を見ていただけのことはある。 見よう見まねながら、編み方は覚えていたようだ。 ふと月星丸の胸元に目をやる。 体には、きつくさらしが巻いてあった。 「てめぇ、まださらし巻いてやがんのか」 そういえば、最初に出会った頃からずっとだな。 「怪我でもしてんのか? ちょっと見せてみろ」 月星丸の襟元に指をかけ、胸元を開く。 「な、やめろ!」 「いいから見せてみろ」 俺はさらしの結び目をほどいた。 「深い傷でもあるなら、今日採ってきたよもぎ汁を塗り込めば多少の傷跡も……」 揺るんださらしがはらりと滑り落ち、月星丸は背を丸めて縮こまる。 白い肌に華奢な肩、わずかにふくらんだ胸元が、女の体そのものだった。 俺はそれに気づき、ひっくり返って後ろに飛び退く。 「お前、女だったのか!」 「何だよ、今まで気づいてなかったのかよ」 とたんに俺の息は苦しくなり、心拍数が急上昇を始める。 動悸息切れめまい等々が、全部まとめて襲いかかってきた。 「出て行け!」 「は?」 月星丸は恥ずかしげもなく、胸のさらしをまき直す。 「今すぐここを出て行け!」 「今さらなに言ってんだ」 「今さら何だよ!」 そう叫ぶ俺の全身には、脂汗がにじみ出している。 「お前が女と知った以上、ここにおいておくわけにはいかねぇ、さっさと出て行け!」 「女と知った方が、都合がよくはないのか?」 月星丸は両膝をついて、俺ににじり寄った。 「女だと知られれば馬鹿にされると思った。だから男の格好で逃げた。もちろん変装の意味もある。このまま男の格好で、ここにおかせてくれ」 鼻先でそうつぶやく月星丸の息が、顔にかかった。 俺はとっさに両手で口を押さえる。 嗚咽が喉元まで押し寄せた。 このままでは絶対に吐く。 「ダメだ」 「なんでだよ!」 朦朧とする意識の中で、土間に下りて一息つく。 俺は柄杓の水を飲み干した。 「男一人暮らしの家に、女なんかおいておけるか。今すぐ出て行け」 胸の鼓動が鳴り止まない。 呼吸が乱れているのを、悟られないようにするだけでも精一杯だ。 月星丸が体を動かす衣擦れの音は聞こえても、背を向けているからどうしているのか様子も分からない。 出て行くなら、戸口は俺の目の前だ。 「嫌だ。今まで通りにしておいてくれたら、それでいいじゃないか。邪魔はしないし、迷惑もかけない。女扱いしなくてもいい。だからここにおいてくれ」 吐き気に襲われている俺には、後ろを振り返ることもできない。 激しいめまいに、このまま立っているのだけでもやっとのことだ。 「邪魔だ。どけ」 月星丸に顔を見られないように居間にあがる。 すぐにでも気絶して倒れそうな体を、背を向けて横になった。 「なんだよ! なんで女だと分かったとたんに追い出すんだよ! あんたもやっぱり、女より男の子がほしかったんだ!」 「あぁ、なるほどそういうことか。家の跡目に弟でも生まれて、追い出されたのか」 月星丸からの返事はない。 激しいめまいと吐き気に襲われながら、俺はなんとか呼吸を整える。 「ここの長屋が気に入ってるなら、隣の千代さんか、お富美さんのところへいけ。俺が話しをつけておいてやる」 一緒に暮らすのだけは勘弁だ。俺の身がもたない。 「俺はもう、男として生きるって決めたんだ」 これ以上女としゃべっていたら、本当に気を失いそうだ。 俺はぐったりとした体で仰向けになった。 「やかましいわ。お前なんぞ、男の端くれにも……」 月星丸が上からのぞき込む。 「どうした千さん、具合でも悪いのか?」 女と分かった月星丸と目が合った瞬間、俺は気を失った。
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