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そして訪れた退院の日は、夕方になったと皇から連絡が来た。
検査は特に問題なかったようで、良かったと心から息をつく。
それにその時間帯ならばいつもより少し早くに帰るくらいで大丈夫そうだ。それは守矢にも連絡が入ったようで、沙菜が守矢に近付いたところで何を言うのか分かっていると言わんばかりに『早退するならしろ』というように手を振った。
今度何か差し入れをしようと心に誓う沙菜である。
ソワソワしつつも午前中にしっかり仕事を終わらせて、「お先に失礼します」と早めに切り上げる。
課長の彼が復帰するのは来週からということになっている為、退院の日は会社全体には伝えられていない。だが沙菜の隣の席であり、最近一緒にいる夕奈にはバレているようで、小さな声で「よろしくお伝えください」と真っ直ぐパソコンを見たまま言われた。
それに自分は恥ずかしがりながら苦笑して、「はーい」と返しておいた。
時間帯的にまだ余裕がある為、走りはしない。それでも急ぎ足だ。
まだ空いている電車に乗って、窓の外の景色を見ながらなぜだか口元が勝手に弧を描いた。
皇の退院が嬉しいのか、名前の関係に変わったことが嬉しいのか、それとも前を歩みだした自分が嬉しいの?
(きっと全部だよね)
揺れる身体。ガタンと動くカーブで重心を変えるのは慣れている。だが病院に行くこの路線はあまり知らなくて、ほんの少し踏ん張りが強い。
以前窓に映っていたのは疲れた自分。髪もぼさぼさで、その電車も最後の時間。
部屋のカーテンも開けなければ、晩ご飯を食べることすらしなくなって、欲望に流されていた日々。
いつの日かにコトンと音を立てて置いたコップはいつも蓋をして悲鳴を塞いでいたけれど、今は体温くらいの温かいもので満ちていて、零れることもなく身体が揺れるのと同じようにたまに水面を描いて揺れる。
それが消えることはない。それでもそれは大切なものだと思える。
このコップこそが自分の心そのもので、ちゃんと私が見ていないといけないものだと分かった。
思っていること、気持ち、悲鳴、涙、そういうものは全て見てみぬふりしていいものではない。たとえ我慢しなければいけなくても、いつかは慰めてあげなくちゃ。
ちなみに言えば。
(私をいま満たしているのはこれなんだよね)
カバンの中に入っている二つの缶。
それが今のコップの中身です。
『病院着いたよ』
アプリを開いて連絡を入れる。そして返事を待つ前に病室まで行くと打ち込めば、この間とは違う階と番号を教えてくれた。
あれから個室ではなく普通の少人数の病室に移されたらしい。
『入って大丈夫なの?』と聞けば、『迎えに来てくれるんでしょ?』と返って来て、どこか意地悪な笑みを浮かべた彼が目に浮かぶ。
『じゃあ行くから待ってて』
それになんとなく唇を尖らせた自分と彼、どちらの方が年下っぽいだろうか。
肩から提げているカバンを直し、扉の前で深呼吸。
そういえばあの日、大声で泣いて個室に誰か来たみたいだったけれど、問題にならなくて良かった。
沙菜はあの日開けた扉よりも少し軽いそれを引いて、「失礼します」と小さく声を掛けた。
ベッドと人。その真ん中あたりに、彼はいた。
「先輩」
もう準備万端だったらしく、入って来た沙菜にすぐ気付いて向こうが声を掛けてくる。
沙菜はそれに小さく笑って近付いた。
「迎えに来ました」
「お待ちしておりました」
微笑みながらどこかふざけて言うのは、なんとなく恥ずかしいから。お互いに。
「あれ? 手、吊ってなくて大丈夫なの?」
「はい。固定したらリハビリをしないといけなので」
「……痛くない?」
「うん。大丈夫」
頷いて彼は怪我をしていない方の手を差し出す。
「行こ、先輩」
いつも先を導いてくれる彼のその手を取って、軽く自分の方に引き寄せた。
「帰ろ、皇君」
けれど導いてくれるのは彼だけじゃない。自分だって彼を導きたい。
そんな想いを込めて引いた手を皇は強く握り返し、無邪気な子供みたいな笑顔を浮かべて、
「はいっ」
大きく頷いた。
病院の敷地は大きい。
二人で手を繋いだまま歩く。その間に守矢のことを話せば、「あぁだからか」と夕奈と同じように理解した仕草を見せた。
「だからあの日、あんなに泣いてたんですか」
「え、皇君、分かってなかったの?」
驚きに目を見開けば、彼は苦笑した。
「いや、守矢さんから伝わっているだろうと思っていましたし」
「私に直接連絡くれたらよかったじゃない!」
「仕事前に事故に遭いました、でもヒビ程度です、大丈夫ですって言ったって心配掛けるだけでしょう?」
上司である元後輩が言う。
「それに朝礼であの人から聞けば、心配はしても仕事を優先すると思ったんです」
「…………」
たしかに、と沙菜は思った。
だがそれは昔の自分だ。
守矢が、皇が事故に遭ったことと怪我の具合を言ったところで心配は勿論する。だがそれでも守矢に『仕事休みます』とか『クビにしても構いません』なんて言わず、まずは仕事をしてからと思っていただろう。
自分の感情は後回し。そして彼のことすら置いて、仕事を優先していたに違いない。
悪く言えば我侭になった。でも良く言えば素直になった。
けれど彼の言葉は気に入らない。
「それは前の私だよ」
沙菜は手を引っ張り、駅へ向かう道を外れる。
「今の私はちゃんと大切なもの、分かってるから」
「先輩……」
「こっち来て」
その外れた先には大きな樹、下にはベンチがある。街灯は無いから少し薄暗いけれど、それは仕方が無いだろう。
皇の手を引っ張りながらそこまで行き、ベンチに座るよう促す。そして肩から提げている自分のカバンに手を入れた。
「はい」
「あ……」
取り出したのはいつもの微糖の缶コーヒー。
それを見せてから一つ、まず蓋を開けて皇に渡す。そしてもう一つは自分の分。
「これからちゃんと、大切にさせてね」
心も、そして貴方も。
「俺も、大切にします」
「うん」
互いにコンッと缶をぶつけ合う。
なんだかすごく久しぶりに感じる微糖の缶コーヒーは苦くて、けれど死ぬほど甘くて――優しく幸せな味がした。
「あーあ、明日も私は仕事かぁ。面倒だなぁ」
一緒のベンチに座りながらぼやくと皇は驚いたように瞠目してから、瞳を細めて笑った。
「せんぱーい、仮にも上司の前で言います?」
「んー……」
コクリとほろ苦いそれを飲んでから、ちらりと視線を彼氏に向ける。
「だめ?」
「そうですねぇ」
わざとらしく悩んでいるような声を出し、持っていた缶コーヒーをベンチに置く。そしてまだ痛むだろうに両手を広げて、
「めっちゃいいじゃん!」
笑いながら強く強く抱きしめてくれた。
これから歩む未来。
陰ることがあろうとも、貴方と一緒ならきっとまた光が差すから。
真っ直ぐに、でも時に曲がったり休んだりしながら、
手を繋いで歩いていこうね。
ふんわりと香る微糖の缶コーヒーが微笑んでくれている気がした。
*END*
(あとがき→)
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