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皇の説明が終わり、溜息をつきながら廊下を歩く。
内容を聞く限り、無茶な仕事を振ってきている感じではない。沙菜でも十分出来る仕事だ。
(でも風当たりは今まで以上にきつくなるかなぁ)
取り敢えず気持ちを少し落ち着かせようと思い、給湯室へ向かえば恵梨佳と香美の声が聞こえた。どうやら彼女たちも休憩をしているらしい。
お疲れ様ですと声を掛けようと給湯室の前へ立つも、「なぁに考えてんだろうね」と彼女たちはこちらに気付かず会話を続けた。
「課長、沙菜ちゃんを管理業務に入れるとか意味わかんない」
「あれじゃないですか? 皇さんもさっさと綾辻さんの契約切りたいんですよ。課長が責任をとるっていっても、結局綾辻さんに押し付けるでしょ」
「たしかに~。あ、沙菜ちゃん、お疲れ様ぁ」
やっとこちらに気付いたようで、二人は沙菜に視線を向けて笑う。
先程までの会話を聞かれていたことに対して何も思っていないようで、もしかしたらいることに気付いていながらあえて会話を続けたのかもしれない。
「えっと、お疲れ様です」
何か、何か言えることはないか。言い返せる言葉は。
だが沙菜自身も皇が何を考えているのか分からない今、二人の会話に打ち勝つ材料も無ければ、やはり勇気もない。
「沙菜ちゃんも大変だねぇ」
何も言えないでいれば恵梨佳がまた笑いながら言ってくる。
「でも課長もきっと出来る人材しか残したくないんじゃないかなぁ?」
「間引きってやつですかね」
香美もクスクス笑う。
「まぁうまくやってね、沙菜ちゃん」
恵梨佳は軽く沙菜の肩を叩いて、二人は給湯室から出て行った。
一人取り残された沙菜は拳を握り、俯く。
さっき自分でも思っていたじゃないか。風当たりが今まで以上にきつくなるだろうって。分かっていても、それを鉄壁な心でガード出来るかは別問題だ。
(ほんと、なんでこんなことになったの……)
唇を噛み締める。
出来ない仕事ではない。まだ始まってもいない。けれどもうイヤになっている。それでも今更無理ですなんて言えない。
(やっぱり皇君にも嫌われているのかなぁ)
こうなることが予想できないような彼ではないと思う。
もしかして連絡を無視していた腹いせ? いやでも彼は強い言葉で『ちがう』と否定し、『大丈夫だから』と真っ直ぐにこちらを見つめた。そこに悪意なんて感じられなかった。
何を考えているのか分からない。それでももう後戻りも出来ないのならば。
「やるしか、ないよね」
今はとにかく頑張るしかない。
両手で頬を叩き、よし! と真っ直ぐ前を向きなおした。
「では来月からこういう体制でお願いします」
下げた頭に、各々が適当な返事をする。
「契約社員なんぞに仕事を振られるなんて、この会社も終わりだな」
守矢がそう言いデスクに戻って行くのを筆頭に、他の同僚も同じように溜息をつきながら戻って行く。
それに沙菜が「すみません……」と小さくなっていれば、「まぁまぁ気にしなくていんじゃないですか?」と、新田孝之(にった たかゆき)の手が肩に乗った。
ピクリと沙菜は反応する。彼は女子からの注意人物――セクハラをすることで有名な男だ。
「誰にだって経験は必要ですよ。失敗も人生の糧になるってやつですね」
「あはは、そうですね」
(失敗するのが前提なんだ……)
微笑みながらも身体を動かし、その腕から逃げようとする。だが新田の手は外れず、二の腕辺りまで撫でるような動きになった。
「でも綾辻さんがまさかリーダーに抜擢されるなんて、もしかして課長が新人の頃、なんか色目とか使ったとかあるんですか?」
「いやぁ、そんなことはないんですけど……」
「是非俺にも色目使ってくださいよ~」
反対側の肩に顎が乗りそうなほど顔を近づけられ、沙菜は今度こそ一歩後ろに下がり周りに視線を向けて助けを求めるも皆スルーする。
新田は社歴も長い正社員で役職にもついているため他の同僚は注意しづらい。そして他の女子社員は自分に被害が及ばぬよう見てみぬふりをする。
たまに守矢が声を掛けてくれていたが、今回のことがあったためか助けてくれない。
「あっれ~、綾辻さん今日香水つけてる? すっごくいい匂いしますけど」
髪の毛に触られそうになったところで。
「新田さん、なにされてるんですか」
「か、課長」
ヒッと短い声でも上がりそうなほど震え上がって新田が沙菜から離れた。
触られていた感触を消すように沙菜は肩と二の腕辺りを擦りながら声をした方を見れば、無表情の皇が立っていた。
別に身長がそれほど高いわけでもないのに、まるで新田を冷たい瞳で見下ろしているようなオーラを纏い、コツンと大きな足音を立てて「たしかに」と一歩踏み出した。
「失敗も人生の糧になる。その通りですが、大きすぎる失敗は穴となって落ちるだけですよ」
最後にもう一歩。足音を立てて新田の前で止まり、先程のオーラを消してにっこりと微笑み言う。
「今しがたしたご自分の失敗がどれほどのものなのか、じっくりお考えください」
「あの、えーっと、その」
新田の表情が真っ青になる。
「私が見たことはしっかり報告させていただきますね」
どれだけ優しげな笑みを見せていても本気度が分かる声音に「いやでも課長」と追い縋るように手を伸ばすも、それを叩き払うかのように笑みを消し、今度は絶対零度を纏って「なにか?」と問う。
それに誰が何を言えようか。
流石の新田も「いえ……」と引き下げていく。
それにホッと沙菜が息をついていると、皇もそのままデスクへと戻って行った。
今まで沙菜を無視していた空気が皇の登場により一度凍り、けれどそれも溶けてむしろ良い雰囲気の社内になる。表情を歪めているのは新田ただひとりだ。
(助けて、くれたんだよね)
もう一度腕を擦る。
いつから気付いていたのかは分からないが、わざわざ席を立って来てくれたのか。全員が見てみぬふりをしていたというのに。
それは仕事を押し付けられて一人残業している沙菜を彼だけがそれを理解して手伝ってくれたのと変わりなくて、二年前と同じ彼で、どれだけ突っぱねたいと思っても心に温かさを感じてしまう。
笑顔で去って行ってしまったことに裏切りを感じているのは自分の都合だ。でもそれを仕方が無かったの一言で飲み込めるものでもない。それは今帰ってきて優しくされたって同じだ。
(でも助けてもらったんだったら、お礼くらい、言わないと)
皇の座る課長の席へ踏み出せば、別のところから「課長~!」という明るい声がした。
その声の正体は恵梨佳だ。
彼女は軽い足取りで皇のところに行き、まるで二人だけの秘密の会話をするかのように彼女は彼の耳元に顔を近づけて楽しそうに話す。
皇もそれに対して特に気にした様子もなく恵梨佳の話を聞いている。それに沙菜はぎゅっと腕を強く掴んだ。
何の話をしているのかは分からない。もしかしたらこれからの仕事について話しているだけなのかもしれない。それでも沙菜は視線を逸らし、背を向ける。そしてカバンに入れている小銭入れを出し、そのままここから出て行った。
向かう先は自動販売機があるところならどこでもいい。
いつもよりも速い足取りで進み、廊下の途中、沙菜の身長ほどある観葉植物の隣にある自動販売機を見つけ、それに慣れた手つきでお金を入れてボタンを押す。
ガコンと音を立てて落ちたそれは、あの缶コーヒー。
手に取ってそれを少しだけ見つめてから、観葉植物に並んで壁に背中を預けて蓋を開ける。
まるで酒を呷るように飲み込めば、甘さが口いっぱいに広がり、冷たいそれが喉を通っていく。
前の朝に飲んだときも甘く感じたそれ。そう、甘いのだ。沙菜にとってこれは。けれどなぜだろう。今日は妙に苦く感じる。
(お礼言わずになにやってるんだろう)
けれど仕方が無い。恵梨佳と話していたのだから。
待っていればよかったのでは? という冷静に突っ込む自分の声は聞こえぬふり。
沙菜はもう一度、今日は苦く感じるそれを飲み込んで、缶の端を前歯で噛んだ。
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