④『あー、無理だわ』

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 凛空が結婚する気がないのは知っている。  どれだけ優しくしてくれたって彼は浮気もしているし、自分が都合のいい女として使われていることも気づいている。  両親に彼氏を家に連れてこいと言われているのも本当だ。  前に結婚結婚うるさくて『彼氏はいるから!』と返してしまい、それから今度は『彼氏を家に連れてこい』『結婚はどうするんだ。するのかしないのか』『孫の顔はいつになる。未婚の母になるのだけはやめてよね』などなど。  仕事で疲れている娘を気遣う言葉など持ち合わせておらず、ただただ自分勝手な将来の不安を語る。  分かってる。分かっているけれど、どうすることも出来ないのだから仕方がないだろう。  凛空と別れることを選んで、仕事の合間をぬって合コンにでも行く? その方が結婚出来る可能性が高い。けれどそうしてまで結婚にこだわってもいない。  それでも不安は付きまとうのだから嫌なものだ。 (別れた方がいいのかもしれないけど)  こうやって置いてきぼりにされ、浮気もされて結婚する気もない。でも凛空は苦しい時、傍にいてくれた人だ。苦しかった沙菜を慰めてくれたから、いま自分はここにいる。  好き嫌いじゃなくて、必要だったのだ。凛空の存在が。  出会ったのは適当に入った居酒屋だった。  立ち飲みの店。サラリーマンが沢山いて、花の金曜日だと嬉しそうに騒いでは会社の愚痴を零したり、仕事の一環として先輩にお酌をしている人もいた。  沙菜はやけ酒だった。  面倒を見ていた後輩が笑顔で本社に異動してから、会社での扱いがまた酷くなった。  仕事を手伝ってくれる人も、セクハラから助けてくれる人もいない。仕事を押し付けられれば自分の仕事をする時間も減る。ならば残業せねば終わらない。  上司は仕事を押し付けられているから残っているなんて気付かないし、ただ沙菜の仕事のスピードが遅いだけだと思っている。  勘違いからの嫌味に加えて、女子グループからも適当に扱われたり、自分の価値をアピールする道具として使われる日々。  頑張ろうと思った。頑張れると思った。  転職して、今の会社で認められて正社員になって、格好よく働きたいと思っていた。  いつか報われる。努力はいつか報われる。  頑張れ。頑張れ。頑張れっ!  けれどどうだこれは。これが頑張った結果? 一所懸命やっても正当に評価されず、これから仕事以外の仲にも発展するかもしれないと思っていた後輩の存在も自分の都合のいい夢物語。  大切なのは過程であって結果ではない。努力したことが大切。そう思うのももう疲れた。  世の中結果が全てだ。  どれだけ勉強して臨んだテストであっても点数が悪ければ、一切勉強していないのに満点の点数を取った相手には負ける。  勉強したことがいつか何かの力になる? 一体なんの力になるの?  自己満足なんてものも社会に出れば通用しない。結果を出さなければ未来に繋がらない。 『もう、頑張るの疲れたなぁ』  夜空に光る星だって、自分の身を燃やして輝いているのだ。輝くためには何かを削らなければいけない。それは自分だったり、もしかしたら他人かもしれない。  いま自分は他人のために削られている。  自分の身を削って相手を輝かせたいことだってあるけれど、自分はそうじゃない。無理やり削られ、使われ、相手が輝いている。  輝きたいのは私。頑張っているのは私。輝くべきなのは私!  でもそれが言えない。断れない。告げられない。勇気がない。  反射的に作ってしまう笑顔。相手の都合に合わせて返す言葉。頷いて、受け取る仕事。 『全部全部、もう消えちゃえばいいのに』  もういっそ、削られて削られて、私自身がもう燃え尽きちゃえばいいのに。そしたら楽になれるのに。  どうして私はこんな人間なのだろう。 『もう、自分でいることやめたいなぁ』  涙なんてとっくに枯れ果てた先に待っているのは無表情だ。  このまま帰りに線路に飛び込んじゃえば―――― 『あれー、なんか疲れてる?』  頭の中で電車の音が聞こえてきたところで、別の男の声が聞こえた。  瞬きもせず声のした方を見れば、明るい髪色で、いかにもチャラついている男だった。 『おわっ、すっげぇクマ! 大学時代に課題で追い詰められている奴でもここまで酷いの見たことねぇよ⁉」  なんだこの男は、というのが最初だった。  けれど純粋な笑みを向けられたのも久しぶりな気がして。 『疲れてんねぇ。呑む前に寝た方がよくね? あー、でも休息取るよりも気持ちを休ませたくて呑む時もあるよなー。お疲れお疲れ』 『…………』 『なーんか顔こえぇくらい無表情だけど、俺の声聞こえてる? 大丈夫? 悪酔いしてたりする?』 『……大丈夫、ですけど』 『あー良かった。でも疲れてる顔してっし、早めに切り上げて休んだ方がいいよ。酒流し込みたくてもさ、そういう時の酒って美味しくねぇし、つまんねーじゃん』  男は持っていたジョッキを片手で持ちつつ、もう片方の手で頬杖をついて沙菜の顔を覗き込んだ。 『頑張るのもいいけど、休息も仕事のうちってやつ? 休ませてくれねぇ仕事もあっけどさ、休める時に休んで、少しでも人生楽しくなるよう力溜めとこーぜ?』 『人生楽しく、なるように?』 『そそ。一度きりの人生、楽しく過ごしたいじゃん。仕事ばっかしてらんねーって。いいんだよ、別にそんなの適当にしても。そこに全部注ぎ込まなくったって。でもまぁ――――』  男は苦笑する。 『それでも頑張っちまうから、ほんと嫌になっちゃうよなー』 『……そう、なの』  その顔を瞳に映しながら、震えそうな声で小さく沙菜は返す。  涙は零れないけれど、なんだろう。胸の中で感情が渦巻いて、爆発しそうな感覚。 『頑張りたくないのに、頑張っちゃう自分って、バカみたいだよね』 『バカ、ではないんじゃね?』 『あんた、名前は?』と続けて問われ、『綾辻沙菜』と答える。すると彼はジョッキを沙菜が持っていたグラスに軽くぶつけ、笑った。 『だってそれが沙菜なんだろ?』 『――――っ』  瞬間、心の中で爆発が起きて、枯れたと思っていた涙が一気に溢れ出てきた。  けれど彼はそれに驚くこともなく、優しい笑みを浮かべて沙菜を見つめていた。  まるで〝それでいいんだ〟とでもいうかのように。  それが凄く嬉しくて、胸が苦しくて、我ながら単純だと思うけれど、これが頑張った過程のご褒美だなんて思えた。  これが、小山凛空との出会いだった。 (まぁ、今から考えれば疲れている女を慰めて手籠めにしただけだったのかもね)  もう見えなくなった背中。けれどそこを見つめたまま、沙菜は小さく苦笑した。  その出会いから沙菜は凛空に、自分であることを肯定してもらうため、この現状を仕方がないと受け止められるようにするために甘えた。  凛空はそれを受け入れた。  きっと彼からしたら関係が持てれば何でもよかったんだろうけれど、沙菜からしたら彼がいなければあのまま本当に線路に飛び込んでいたかもしれない。そう考えたら、適当なナンパであったとしても凛空には感謝している。  そして今も、沙菜は凛空に甘えている。  どれだけ都合のいい女であってもいい。使われていたっていい。浮気されたって構わない。  ずるずる一緒にいるだけの関係だけれど、それでも自分を肯定してくれる存在が今の自分には必要だ。 (変わったようで、変わらないね、私)  いつまで経っても、弱いままだ。  どうしようもない自分に自嘲すれば、 「綾辻さん」  ふいに名前を呼ばれる。  何も考えることなくゆっくり振り返れば、 「皇君……」  そこにいたのは皇だった。
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