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近くにあった適当な喫茶店に入る。
昼食の時間とはズレているため、少し並んだだけですぐに中へ案内された。
外にもパラソルと共にテーブルがあるので沢山の人が座れるのだろう。
「俺、昼まだだったんですよ」
ここは入った時に手渡されたナンバープレートを確保したテーブルに置き、それからカウンターまで注文しに行く形式だった。
取り敢えず自分もアイスティーでも頼もうかと思い、皇と一緒に並ぶと彼はサンドイッチを頼んでから、「ケーキとか食べるんですか?」と聞いてきた。
「んー、どうしようかな」
食べると言ったら皇も食べるのだろうか。
ブラックが飲めない彼は甘いものも食べる。こちらも頼まないと食べづらいのだろうか。
沙菜は隣から覗き込むようにメニュー表を見て、「そしたら私、これ食べるね」と指さす。すると皇は「じゃあこれ一つお願いします」と店員に頼んでしまった。
「えっ、ちょっと! 待って待って!」
慌てて手に持っていたお財布を開ける。今のケーキは一体いくらだろう。だが皇は「お金はいいですよ」と言った。
「奢ります」
「いやいや、悪いからっ!」
上司になったといえど、年齢の差は変わらず年下だ。
「付き合わせているお礼です」
「えー……」
そう言われると払いづらい。それでも年上である自分の立場はどうなるのだ。
「上司のプライドってやつですか?」
唇を尖らせていつかの〝男のプライド〟の言葉をもじって聞けば、皇は一瞬ふいをつかれたかのような顔をしてから、その時と同じ子供のような顔をして笑った。
「そうですよ」
年下なのに上司で、それなのにこんな子供っぽい笑みを浮かべる。
立場も流れた時間も違うのに、変わらないそれに沙菜はつられるように少し笑い、お金を払い終わった皇が一緒にケーキも運んでくれるのにも甘えて店員に「アイスティーお願いします」と注文した。
「あ、そういえば」
二人で席に着く。そこで沙菜は言えなかったお礼を思い出した。
「この間セクハラから助けてくれてありがとう。お礼言うの遅くなっちゃってごめんなさい」
小さく頭を下げれば、手を拭いていた皇はそれを止めて「いえ」と返す。
「上司として当然です」
胸を張って言うようなそれに少し吹き出しそうになる。
会社にいる時の彼だけを見ているのであればその姿は普通なのだろうけれど、沙菜は先程のような子供っぽい顔も知っているため、どうしてもギャップが生まれてしまう。
優秀かつ冷静に仕事をこなし、プレゼンなんかお手の物。カリスマ性があるほどではないが、きっともっと年を重ねればついて行きたい部下が沢山出来るに違いない。
だが話してみれば冷めているようで情熱的。落ち着いている物腰は仕事の時だけで、案外感情的になりやすい。それこそ仕事とプライベートの線引きを上手くしているだけで、中身は年相応だ。
まぁそれを言ったら彼はきっと拗ねてしまうだろうから言わないけれど。
「でもあんまり誰も注意出来ない人だったから」
あのセクハラ男を注意出来るのは守矢くらいだが、助けてくれるかはあの人の気分による。
「あー、後沢さんも言ってましたね」
再び手を拭き、丁寧にそれを出した袋の上に戻した。
「あの後、あの人注意してくれるの全然いなかったんですーって教えてくれました」
「……へー、そうなんだ」
どうやら二人で話していたのはそのことだったようだ。
LINEではどこか意味深に秘密だと恵梨佳は言っていたが箱を開けてみればなんだ、大した話をしたわけではないではないか。
(本当にただ仲が良いアピールがしたかっただけじゃん)
相変わらずの彼女に苦笑しか生まれない。
「でもまぁ、それでも誰か助けろよって思いますけどね」
「無理だよ。あの人業績もいいし」
「それなら何でもやってもいいってわけじゃないじゃないですか。俺はそういうの許せない」
外で凛空が怒った理由を理解出来ないと言った時のように表情を歪める。
「相変わらず真っ直ぐだね」
それとは反対に沙菜は笑った。
一緒にいたのが二年前だとは思えないほど彼は何も変わらない。
(いうなれば少し生意気になったくらい?)
そう思ってからまた心の中で笑ってしまう。
もう仕事に夢見れるような立場ではないだろうし、いくら社内が厳しいといえど裏であれこれしている人間がいることも知っているに違いない。それにすでに二年前に沙菜が恵梨佳に仕事を押し付けられていたことにも気付いていただろう。けれど皇は何も変わっていない。
本社でどんな経験をしたのか、何があったのか分からないが、真っ直ぐさは健在だ。
曲がったことが嫌いな彼のまま。
「そうですよ。俺は常に真っ直ぐです」
「そこ自分で言うところ?」
ついに、あははっ、と声を出して笑う。
こういうやり取りは懐かしさを感じるものだろうに、時の流れもつい忘れてしまう。意識せずとも気持ちはもう二年前のあの頃だ。
「まぁそこも皇君っぽいけどさ」
笑いながらストローを取り、破いてアイスティーの中に差し込んだ。
気分が良いまま意味もなく音を立てて掻き混ぜれば、ふと視線を感じ顔を上げた。
「皇君?」
真っ直ぐ見つめてくる瞳。
口元に笑みを浮かべたまま、沙菜はその瞳を見つめ返す。
「なんで戻ってきたか、聞きたがってましたよね?」
真剣な声音で言う言葉。突然のそれに固まった。
――――どうして戻って来たの?
そう聞いた沙菜に彼はまだ秘密だと返した。
店内には沢山の客がいて騒がしい。それなのにまるで空間が切り離され、静寂の中に放り込まれたかのような錯覚。
先程まで掻き混ぜていたアイスティーの氷が、カランと大きな音を立てた。
「先輩を助けるためって言ったらどうします?」
「――――え?」
久しぶりの先輩呼びにも気が付くことなく、沙菜は意味が分からないと数回瞬きをする。
私を助けるため? どういうこと?
「最初は俺のために時間を割いてくれているせいで仕事が滞っているんだと思いました。けれど俺に教えてくれていない日にも先輩は残業をする。じゃあ仕事をするスピードが遅いのかと思えば、見ている限りそんなこともなかった」
皇は向き合い、真っ直ぐ沙菜を見つめながら言う。
「よくよく注意して見ていれば、仕事を押し付けられていることに気が付いた。特に後沢さんから。しかも先輩がやったことなのに、あたかも自分がやったかのように提出する」
「…………」
やっぱり気付いていたことに自分の不甲斐なさを感じるも、うまく言葉が出てこない。
だって、この言い方じゃまるで、本当に――――
「不当な扱いを受けている先輩を助けたかった。でも新人の俺が叫んだって何も変わらない。だから上司になって戻ってきてやろう。そう決めたんです」
「……なん、で」
――――本当に、私を助けるためみたいな。
真っ直ぐな彼は正義感も強い。同情をすることもあるだろう。けれどただそれだけの感情でここまでするだろうか。
「どうして、そこまで」
零れ落ちるように聞けば、皇は微笑むようなことはしなかった。
ただ、真っ直ぐ。
「好きだから」
彼らしく真っ直ぐに答えた。
「先輩のことが、好きだからです」
フラッシュバックとは、こういうものだろうか。
目の前の後輩が、笑顔で『お世話になりました』と言っている。
清々しくお礼を告げる彼に、私は『そっか。分かった』と置いて行った。それでも私の方が置いて行かれたんだと思った。
本社への異動。その心はきっと喜びに溢れているだろう。優秀な彼が認められた証拠なのだから。でもそれは全部私の為だったというのか。
(待って、ちょっと待ってよ)
注がれた水で溢れたコップが、ぐらぐらと不安定に揺れた。静かに透明な液体が零れ広がり、際限なく溢れ出る。
裏切られたと思った。でもその裏切りさえもただ自分勝手な感情で、彼は何も思っていなかったのだと思った。けれど彼は私のことを想っていてくれた。
(なんで今更そういうこと言うかな)
連絡が来ても無視して返事をしなかった。
普通ならそこでもういいやと放っておくだろう。こいつの為に頑張ってんのにと苛立ち、きっと自分ならこんな子会社に戻ってくるのをやめてしまう。
だが彼は戻って来た。
私の上司となって。
(それならそうと言ってくれれば――)
待っていたのに、という言葉まで考えると頬が熱くなる。
それはつまり、そういうこと。男女関係を考えることもあったのに、こう改めて意識すると恥ずかしさと嬉しさが胸を満ちる。
(皇君が、私のことを好き)
不安定に揺れるコップは浮かれている証拠? この溢れる感情は、久しぶりに感じるこれは、
『さぁーなぁー』
聞こえた声に揺れが止まる。あれだけ溢れていたものもピタリと止まり、そんなものどこにも零れ落ちなかったというように地面も乾いた状態になった。
(凛空……)
『だってそれが沙菜なんだろ?』
小さくコップが軋むような音を響かせる。
そう。いま私がここにいるのは凛空のおかげ。凛空がいてくれたから、私は今ここに座っているし、こうやって後輩と再会することが出来た。
でもいま凛空は別の人のところに行ってしまった。きっと今日みたいな我儘を言えば、もう家に来ることもなくなって、別れると明言しなくてもこの関係は消滅するだろう。
凛空からしたらそれだけ簡単な関係だ。それでも。
〝されて嫌なことはしてはいけません〟
子供の頃に教育されるそれがどれほど難しいことなのか、大人になってから痛感する。
(浮気、だめ、絶対)
そう自分に言い聞かせる。
浮気されているなら浮気してやればいいと、どこかで思ってしまう自分が心底嫌いだ。
沙菜は膝の上で強く拳を握る。
「ありがとう。でもごめん」
そして首を横に振った。
「私、彼氏いるし」
こういう返事の仕方はずるいのかもしれない。それでも皇はそれを指摘することなく、そして表情を歪めることもなく返した。
「先輩に辛い思いをさせるのが彼氏?」
「……それでも、あの人が私の支えだから」
浮気をされていたとしても、甘やかして支えてくれる。たとえ皇が帰って来たといえど、その過去は消えない。
救ってもらっておいて、そのまま自分の都合でさようならなんてしてはいけないことだ。
「私、帰るね」
席を立つ。すると皇も立ち上がり「送ってく」と言ってくれたけれど、沙菜はそれに苦笑して断った。
「私は浮気したくないから」
振り返ることなく店を出て行く。
そういえばケーキもアイスティーも、一度も手を付けなかった。折角奢ってくれたのに申し訳ないことをしてしまった。
小さく息を吐き、これ以上はもう考えない。考えたらきっとダメになる。
沙菜はいつもよりも早く歩き、アーケード街を抜ける。楽しそうな家族や恋人同士が横ですれ違うのを極力視界にいれないようにしているのは、きっと今抱いている気持ちを知りたくないから。
駅のホームで電車を待つ間、スマホを取り出し穂稀に連絡を入れる。ただ短く一言。
『一人で参加するね』
それだけを打ち込む。それだけで察してくれるだろうか。あまり凛空の話をしたことないのだけれど。
気を使ってくれた彼女にも申し訳ないことをしたなと沙菜はもう一度息を吐くが、それは音を立てて滑り込んできた電車の風と混ざって消えていった。
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