⑥『わかんないよっ』

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 退社の時間になれば、各々が帰る支度を始める。  新たな体制になってから残業する人も減った気がし、それに沙菜も含まれている。終電を逃すどころか、終電よりももっと早い時間の電車で帰れるようになった。  仕事が減ったわけではない。けれど上手く回っているのはきっとその人の得意とする仕事を重点的に割り振っているからだろう。  勿論全てをそのように出来るわけではないけれど、一つでも楽になれば案外仕事は捗る。モチベーションも保たれやすい。  この新たな形を導入してから、不満の声は上がったことはないが、満足している声も聞こえない。気付いていないのか、それとも上手く回っていることが気に食わなくて敢えて何も言わないのか。  どちらにしても沙菜自身はここでの仕事自体はかなり楽になった。 (私もそろそろ帰ろうかな)  そう思いながらスマホに触れる。LINEの通知マークはない。今日凛空は仕事が長引くから家に来ないと朝に連絡が来た。それでももしかしたら早く終われば来るかもしれない。 (取り敢えず凛空が好きな料理が作れるようにしとこう)  昨日のまま不機嫌だったらきっと朝に連絡を入れることもないだろうから、もう怒ってはいないのだろう。もしかしたらもうどうでもいい部類に分けられ記憶から消しているかもしれない。それならそれでもういい。  沙菜はそのままカバンを持ち上げようとすれば、香美の高い声が耳に届いた。 「今日は彼氏とデートなんだ~」  ピタリと止まり、手にしたカバンを戻して椅子の背凭れに背中を預けた。軋むその音はどちらからの音か。 (なるほど、今日はそのままそっちにいるのね)  あの後、香美の家に行って機嫌が直り、そのまま居心地がいい彼女と過ごす。連絡をしてくれたのは気分が良くなったから。待ちぼうけをさせないようお情けをかけたような感覚か。 (料理の用意、しなくていいや)  脱力するように息を吐き出せば、トントンと肩を叩かれる。  そちらに視線を向ければ最初に見えたのは書類。どうやらそれを縦にして肩を叩いたらしい。それだけで相手は見なくても分かる。 「はいこれ」  薔薇のような甘い匂いと、少しトーンを下げた恵梨佳の声。 「やっといてね」  もう溜息をつく分の息は先程吐き出してしまった。  何も言わずにそれを受け取ろうと手を伸ばしたが、その前にその書類は姿を消し、代わりにその先の視界が開け皇の姿が目に映った。慌てて背凭れから身体を起こす。  皇は「ちょっと失礼しますね」と恵梨佳から取った書類に目を通した。 「これ、後沢さんの仕事ですけど、どうしたんですか?」 「いえ、えーっとぉ」  まさか押し付けようとしていたことを言えるわけがない。  恵梨佳はなんとか笑みを浮かべたが、書類から視線を上げた皇は容赦なく彼女に問いかける。 「綾辻さんに渡す理由は?」 「あっ、これ沙菜ちゃんに渡すものじゃなかった! ごっめん間違えちゃったぁ!」  もうやだ私ぃ、と恵梨佳は皇が持った書類を取り戻し、背中に隠す。そして誤魔化すように「課長もこれで上がりですか?」と笑顔で首を傾げながら聞いた。 「これから一緒にご飯とかどうです? 美味しいところ私知ってて、ひとりで入るには少し勇気いるかなぁって」  少し高めのお願いするような声。同じ性別の女子から見たらどう考えても可愛い子ぶっているのに、それに男性は気付かないという記事を読んだことがある。  綺麗な長い黒髪に、相手を惑わすような香水。表向きは仕事が出来る、美人な女性。そんな彼女にご飯を誘われても悪い気はしないだろう。  実際、今までも恵梨佳は他の男性社員を誘って一緒にご飯を食べては、奢ってもらったと自慢することが多々あった。 (皇君、どうするんだろう……)  座ったまま皇の様子を見ていると、彼は特に表情を変えることなく無関心な様子で答える。 「いえ、俺はまだ仕事があるんで」 「えー! そうなんですかぁ? 是非一緒に食べたいんですけどぉ」 「そうですか?」  引かない恵梨佳に皇はまるで彼女の意図を分かっていないというような顔をして「それなら」と微笑んだ。 「守矢さんならもう上がりですよ」  ピシ、と何かに亀裂が入ったような音がしたのは、自分のコップではない。むしろ沙菜は皇の返しに、流石デスネと笑ってしまいそうだ。  その音を立てた彼女、恵梨佳はヒクリと口角を引きつらせるも笑顔をキープしたままで、それも流石だけれどやはり感情は隠しきれないらしい。 「そしたらまた今度、課長と私の二人で行きましょうね」  苛立ちの混ざった声音で、〝課長と私の二人〟というところを強調しながら言い、そのまま退散した。 (後沢さん、惨敗)  そそくさとオフィスから出て行く彼女を見送るのは案外気分がいい。だがそれはほんのひと時。 「なんで断らないんですか」
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