⑥『わかんないよっ』

3/4
1529人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ
 恵梨佳よりも不機嫌な声で聞いてくる皇に、「え、えへ」と笑ってみせる。  やはり仕事を押し付けられていたことに気付いていたようだ。だから声を掛けてくれたのだろう。 (本当に助けるために上司になって帰って来てくれたんだ)  新人の頃は仕事を手伝ってくれていたけれど、きっとこうやって彼女を遠ざけることは出来なかったに違いない。  今は課長という上司だからなせる業だ。  さてその上司が不機嫌なのを一体どうしたらいいのだろう。 「お先です」  困っていれば、隣のデスクの夕奈が立ち上がり、そのまま会社を後にする。  ずっと隣でやり取りを見ているだろうに、相変わらずの無関心さにはもはや天晴れだ。だが皇はそうは思わないらしい。 「木部さんも何も言わないんですね」  小さくそう零し、沙菜は「ちょっと、皇君!」と声を小さくして注意する。  誰かに聞かれたらまずいだろうと周りを見れば、もう残っているのは自分と皇の二人だけだ。それにホッとするも、まだ言葉を重ねる彼に沙菜は冷や汗を掻く。 「隣の席ですよね。後沢さんが先輩に書類を渡す頻度がおかしいことくらい分かりませんかね。てか、なんで誰も何も言わないんですかね」  皇のトーンはいつもより低く、怒りを爆発させないようこれでも我慢しているようだ。吐き出される言葉のスピードはいつもより速く、誰かに言うというより呪文を唱えているに近い。 「セクハラの件といい、仕事の押し付けに嫌味? ブラックとかそういう話じゃないですよね。人間としておかしいですよ。おかしいに決まってる。どうして誰もおかしいと思わないんですか。どうして誰も先輩を助けないんですか。自分だけ平和ならそれでいいんですか」 「ちょ、まだここ会社だから……」  愚痴が出るのは仕方が無い。飲み会の席でその場にいない人の悪口になることだってあるし、沙菜自身だって親友に愚痴ることはある。  だがまだここは会社で、誰にどう伝わるか分からない。誰もいないといえど小さな声であっても不安になる言葉の数々に沙菜は両手を差し出して振り、やめさせようとするも皇は止まらない。  元々不機嫌だったのだ。感情メーターが振り切ったのだろう。 「確かに業績を争う同僚としてライバルかもしれませんけど、その前に同じように勤める仲間ですよ。陥れる方がおかしいでしょう。何なんですか一体。どんだけ腐ってんですか」 「皇君落ち着いて、誰かに聞かれたら大変だからっ」 「落ち着いてる場合ですかっ。俺は先輩にも怒ってるんです! いつも笑って何でも受け止めるから、ああやって仕事押し付けられたり、いらん嫌味言われたりするんですよっ!」 「――――っ」  振っていた手が止まる。  その言葉は鋭く心を刺し、見てみぬふりをしていた痛みを実感させられる。  先輩なのに後輩に助けられる情けなさ。夢を描いていた後輩が現実を見て、自分に対しても怒っていたのかという妙な脱力感。 『沙菜ちゃんって一人で生きていけそうな感じだし、守ってあげたいとか、一緒になりたいとか思わないかも~』  好きでそうやってるわけじゃない。私だって言いたいこと言いたい。仕事だって押し付けられたくないし、その嫌味だって私が言われる言葉じゃないって跳ね除けたい。  でも、それが出来たら苦労なんてしてない。  一人じゃ生きられないよ。守って欲しいよ。誰かに傍にいて欲しいよ。 (あぁ、私って)  本当にダメだなぁ。 「そうだね」  皇の言葉に肯定を返す。  怒る気力なんてない。感情を爆発させることは疲れることだって知ってるし――うそ。違う。そうじゃなくて、もうただただ。 (べつにいいや)  傷つくのに疲れて、感情に蓋をしただけ。 「うん、そうだね」  へらりと浮かべたいつもの笑顔だけが最後の砦。 「せんぱ、……ちょっと待ってて」  何を思ったのか皇は沙菜を置いて出て行く。  どこに行くつもりなのか、そういうことは一切思わなくて、このまま戻ってこなくてもきっと自分は何も言わないだろうという確信があった。  だが皇はすぐ戻って来て、また沙菜の前に立って少し乱れた息で言う。 「でも、ちゃんと、知ってるから」  そして差し出された缶コーヒー。 「頑張ってんの、ちゃんと知ってるし。そういうところが俺、好きなんで」 『頑張ってんな』  その言葉は凛空に何度も言ってもらった言葉だ。  辛くて、泣きたくて、苦しくて、ひとりぼっちで悲しくて。そうしたら凛空は頭に手を乗せて『頑張ってんな』と言ってくれた。  それにどれほど救われただろう。でも、今となったらその言葉に気持ちが込められていたのかどうかも分からない。  頑張っている自分。一所懸命やっている自分。それでもうまくいかない自分。  努力をするのは悪いことではない。それでも空回っている努力が報われるなんて思えなくて、そんな情けない自分が嫌いで仕方が無くて。でも頑張ることがやめられなくて、苦しくて。  それを凛空は理解してくれたと思っているけれど、本当のところどうなんだろう。  出会った時の最初の言葉はナンパの適当な台詞? 優しく慰めてくれる時、何を思っているの? 『頑張ってる』という言葉に、そこに気持ちはあるのかな。  いま、彼が言ってくれたように、その頑張っている自分を『好き』だという気持ちは、あるのかな。  でも今日も凛空は、私を置いて行ってしまう。私なんかじゃ、ダメだから。 「…………」  差し出された缶コーヒー。  それに視線を向けて、上げて、皇を見る。  どこかバツの悪い表情なのは、言い過ぎたと思っているのだろうか。けれど謝らないのは本心だから。それならきっとその後に言った〝好き〟という言葉は同情なんかじゃなくて、彼が思った本当の気持ち。  沙菜は下ろしていた手をゆっくり持ち上げ、伸ばす。  その手を掴んだら、掴み返してくれないかな。無理やり引っ張って、抱きしめてくれないかな。  もう一回、好きですって、言って欲しいな。 「皇君」  名前を呼んで、掴んだものは。 「ありがとう」  甘くて苦い、微糖の缶コーヒーだけにした。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!