①『お久しぶりです。また缶コーヒーを飲みましょう』

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 軽いメロディーが流れる。  それを聞きながら沙菜は走って階段を降り、飛ぶようにして扉をくぐった。  片足がタンと地面に付くと同時に空気の抜けるような音を立てながらその扉が閉まる。 「っ、はぁ……」  がたん、ごとんと走り出した電車に息を吐いた。  駆け込み乗車なんて駅員に怒られるものだけれど、それを咎める乗客はいない。終電に走って乗り込む社会人なんて日常茶飯事に見ているのだろう。  朝とは違い空いている車内で、汗で湿った顎下を手の甲で拭いながら身体を反転させて扉の窓の外を眺めた。  暗い外に明るい内では窓は鏡のようになる。そこで自分の髪がひどく乱れているのに気付いて、慌てて手で梳かした。恥ずかしいと思いつつも、まぁ誰も気にしないかと息を吐いて、その手をゆっくりと下ろす。  まだ中途半端に乱れた髪形と、疲れた表情。  それを何となく見つめ、一度だけゆっくり瞬きをする。当たり前だが窓に映る自分に変化はない。 「…………」  ふいと視線を逸らし、また身体を反転させ扉の隅の方に寄せた。途中電車が大きく揺れるけれど、体重の掛け方を覚えている両足がたたらを踏むことはない。  肩から提げたカバンからスマホを取り出す。  側面の電源ボタンを軽く押し画面を付ければ、LINEの通知マーク。それに少しだけ心躍らせて親指でタップすれば、開いたのはどこかの公式からのメッセージで、他に何か無いかとトーク欄を見ても何のマークも付いていない。  会社の女子グループですらメッセージのやり取りは行われていなかった。  沙菜はそれを閉じて今度はSNSを開く。心のどこかで『やめとけ』と叫んでいるけれど、親指は止まることなく朝に見たまま止まっていた場所からスクロールし、更新された方へと上がっていく。  とある写真にピタリと手が止まった。 『働いた後のイタリアンは別格!』  前菜と小さく盛り付けられたお洒落なパスタ。そして一人ではないと分かる、数名のピースされた手だけが映っている。  奥の方のネイルは庶務の彼女だと気付き、手前は綺麗に磨かれ光っている爪で、派手なネイルは禁じられている営業のあの子だ。ならば必然的にこの手は仲の良いもう一人の営業の子になる。  グループLINEは更新されていない。だが退社した時間は別々だった筈だ。 (まぁ、分かってたけどさ)  自分抜きのグループで話していることくらい、随分前から気付いている。その現実を叩きつけられたって今更だ。こういうことだって別に初めてじゃない。  それなのにわざわざ確認してしまう自分は一体何なのか。  SNSから視線を外して顔を上げる。空いているため向こう側の窓も見え、また草臥れた自分と目が合った。 「私、なにしてんだろう」  小さく零れた言葉は車内に流れた次の駅名を告げるアナウンスによってかき消される。  こんなところでも私の声は誰にも届かない。  プシューという音と共に開いた扉から数名の人が乗って来た。スーツ姿の人と肩がぶつかり、よろけたのは沙菜の方なのに、ぶつかってきた相手の方が舌打ちをして奥へと入っていく。  頭を打ちそうになった座席の手すり棒に縋り付くように両腕を置いて、傾いた姿勢を戻す。だが出発した電車に、また身体がふらついて倒れそうになった。  今度こそ周りからの視線を感じた。それでも心配する声も、助けてくれる手もない。  あぁ、本当に。  私、なにしてんだろう。 『なにしてんですか、先輩』  聞こえた声にハッとして沙菜は顔を上げる。だがその視線の先には顔を背けた他の乗客だけで、声を掛けて来た人は誰もいない。 『資料作りですか? 手直し? どこが悪かったのか俺も教えてもらっていいですか? また何か作る時にそこを注意して作るようにするんで』  それは聞いたことのあるもので、過去の記憶だと理解するのに時間は掛からなかった。  沙菜はしっかりと立ち上がり、両足で強く踏ん張る。こうしておかないとまた身体が揺さ振られてしまう。  人が増えたため、もう向こう側の窓は見えない。だが先程よりも自分の表情が引きつったことが分かる。  時折こうやって思い出されるこの声の正体は二年前に教育係として指導した後輩だ。 『あれ、これって先輩が作った資料じゃないですよね』 『えっと、そうだけど、ほらっ、第三者から見て直した方が先方にも伝わりやすいじゃない?』 『……なら俺に任せてもらってもいいですか?』 『えっ!』  横から資料を取られる。そこには赤ペンが入っており、修正する箇所を示されている。それを取られたらどこを直したらいいのか分からなくなってしまう。 『い、いいよ! 皇(すめらぎ)君にはさっき契約書作成してもらったし』 『それはそれ、これはこれってやつですよ。俺の勉強にもなりますし。あ、データは俺の方にメールしておいてください』 『でも……』 『じゃあこうしましょう』  手に持った資料を揺らし、ピンと立たせる。無理やり姿勢を正された紙は、自分が持っていた時よりも優秀なものに見えた。 『先輩想いの後輩に、今度奢ってやってください』 (そう言ってたくせに、結局割り勘になったんだよね)  あの自分より四つも年下の皇に奢ってあげたものはせいぜい缶コーヒーくらいで、どれだけ一緒に食事をしても先輩として奢らせてくれることは一回もなかった。  それに対して『私が奢るんじゃなかったっけ?』と苦笑すれば『男のプライドだから』と子供っぽい笑みを見せたのが可愛くて笑ってしまった。  そういえば勤務中に本気で笑ったのは彼がいた頃以来ない気がする。  でもそれはもう二年も前の話だ。後輩の彼はここにいない。あの時は良かっただなんて、死んでも思ってやらない。  手に持ったままだったスマホを持ち上げれば、それはまだSNSを開いたままになっていた。また誰かが更新したのか、スクロールバーが長くなっているけれどもう確認をすることはせずそれを閉じる。  LINEのアイコンが視界に映り、けれど同じようにもうタップすることはせずに側面の電源ボタンを短く押して画面を暗くした。  友だち欄から彼は消した。否、正確に言えば非表示にした。異動の報告を受けた時に。  それから何回か連絡が来てはトークを消し、電話が掛かって来ては無視をした。一年間くらいそれが続き、現在ではもう連絡が入ることは無い。  当たり前だ。無視されているのに連絡を入れ続けるなんてストーカーくらいだろう。一年続いただけでも凄いと思う。 (無視なんて、私らしくないけど)  でも、そうしてしまうくらいショックだったのだ。 「っ…………」  また萎れてしまいそうな気持ちを、首を振ることで立て直し、スマホをカバンに仕舞う。  もう会うことのない人のことを考えたってどうしようもない。女子グループが自分をはぶいているのをいちいち確認してしまうこと以上に。  沙菜は背中を扉の隅に預け、息を吐く。  音を立て揺れながら進む電車にまた乗るのも、数時間後だ。  そう考えればまた気持ちは落ちるけれど、皇のことを考えて萎むよりマシだと思った。
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