⑦(でも、ありがとう)

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「後沢、あの書類はまだか?」  珍しい言葉に沙菜は顔を上げ、斜め向こうの恵梨佳のデスクを見る。  そこには守矢が立っており、恵梨佳はすまなさそうに立って両手のひらを合わせて謝った。 「すみませぇん。もう少し掛かりそうで……」 「前ならすぐ終わっただろう。最近どうしたんだ?」  どうやら提出が遅れているのは今日に限った話ではないらしい。だが恵梨佳はまだこちらに仕事を押し付けている状態だ。それなのに終わっていないとはどれだけ仕事をしていないのか。いや、単にスピードが遅いのか。 「なんかぁ、私だけ仕事が多いんですよ~」 (えっ)  そうくるかと沙菜は額に手を置いて溜息をつきたくなったけれど、矛先をこちらに向けた守矢にギシリと表情を固まらせる。 「おい綾辻、どうなってんだ」  元々恵梨佳にああいった言葉が投げかけられるだけで珍しく、あからさまにでなくとも注目を集めていたのに、少し離れたこちらにそんな大きな声で問いかけられれば、全員の視線が沙菜に向く。  沙菜が怒られているのはすでにテンプレだが、これは〝いつものだ〟というようにスルーすることは出来ないだろう。 「いえ、その、私は……」  彼女の仕事を押し付けられている側で、決して負担を増やしているなんてことはしていない。  だがここでそれを言って信じてくれる人はいるだろうか。今までだって皆、恵梨佳のことを仕事が出来る女認定いていたのだ。仕事が出来ないと思われている自分が何か反論したところで周りが肩を持つのは彼女の方だ。  それを分かっているのか、守矢の背中の後ろにいる恵梨佳は笑みを浮かべている。 「て、手伝うよ」  なんとか口元に弧を描いて立ち上がり、肯定も否定もしない言葉を選べば、守矢が腕を組んで溜息をついた。 「お前その言い方は違うだろう。なんだ、最近仕事が上手く回ると思ったら全部後沢に押し付けていたのか」  違う、そんなことしていない。  そう口にしたいのに、結果が見えていて何も言えない。でもそれではずっと勘違いされたままだ。 (どうしたらいいの……)  唇を噛み締めて入れば、ガチャリと扉が開く音がした。 「……どうされました?」  入って来たのは皇で、社内の空気がどこかおかしいことに気が付いたのだろう。周りを見て、そう声を掛ける。 「綾辻が後沢ばかりに仕事を押し付けているみたいでな」  答えたのは守矢だ。嫌な笑みを浮かべながら説明する。 「はっ、出来る奴に全部回していたらそりゃあ上手く回るこった」  手を広げ肩を揺らす。とことんバカにするようなそれに沙菜は噛み付きたい衝動に駆られるも、それを許さないのは自分自身の弱さだ。  守矢の話を聞いた皇はそれに考えるように顎に手を当て、「ではこうしましょう」と口を開いた。 「後沢さんの負担を少し減らしてあげてください。A社の担当は次回から私が行きます」  ピクリと反応したのは担当取引先を減らされる恵梨佳の方だ。それに反論しようと一歩前に出るも、先に「あと」と皇が付け足す。 「先日提出された書類にミスがありましたので、再提出お願いします。最近多いですよ、後沢さん」 「うっ」  踏み込んだ筈の一歩が緩む。 「本当にどうしたんだ後沢」  守矢は振り返り、表情を歪めた。溜息をつかないあたりまだ良い方だが、恵梨佳からしたら全員の前でそんなことを言われるなんて屈辱、恥じ以外のなにものでもない。 「あ、あー! それ沙菜ちゃんが代わりに引き受けてくれたやつですよー!」  再び恵梨佳は沙菜に間違いを擦り付けようとするも、逆に皇に問い返される。 「なぜそれを綾辻さんに頼むんですか?」 「え……」 「それは貴方の仕事では?」 「だからそれは……私だけ仕事が多くて……終わらなくて」  目を泳がせながら言う恵梨佳だが、もう雰囲気は疑問の空気で、誰も彼女の見方につくような感じではない。皇も溜息をついて「分かりました」と返した。 「少し後沢さんに仕事を振りすぎました。今後私がサポートに入りますので安心してください」  笑顔で言うそれは頼れる上司そのもので、ミスを指摘されて取引先までも減らされた恵梨佳の表情が一気に晴れる。  きっと彼女からしたら年下の彼の笑顔は天使のようなものに見えるだろうけれど、沙菜からしたら作り笑顔も甚だしい。むしろ恐怖を覚えるものだ。  しかしそう思っているのは彼を知る沙菜だけで、周りもどこか感心するような視線だ。 「では皆さん、朗報です」  続けて皇は全員に向けて言った。 「今月の業績見込みですが、前月よりも30%上がる見込みです」  社内が一気にざわついた。  他社と比べてもここの業績は悪くはない。だが良くもならずグラフは平行線を辿っていたというのに、まさか上がるなんて誰も思わなかっただろう。 「試験的と最初は言いましたが、このまま継続していこうと思います。宜しくお願いします綾辻さん」 「あっ、はい!」  先程とは違う本当の笑みを向けられながら言われ、沙菜は反射的に頷いた。 「課長のサポートのおかげですかねぇ」  香美の声だ。それに皇は笑った。 「皆さん、そして綾辻さんの力ですよ。私は確認をしただけで、全てみなさんが回してくれました」 「またまたご謙遜を」 「いえ、現に結果は出ています」  守矢のどこか嫌みったらしい言い方にも気にすることはなく、皇は持っていた他の書類を差し出す。それを受け取りに行った守矢は驚きの表情をし、それを喜ぶのではなくどこか悔しそうに唇を噛み締めた。  「私は管理職として必要な仕事をしただけです。皆さんがもともと持っていた能力を最大限発揮できれば、今回の業績はただの通過点でしかありません。」  笑顔で言う。 「今後も宜しくお願い致します。今季の賞与は期待していてくださいね」  ほとんどの社員が、笑顔で喜びの声をあげた。
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