⑨(これってきっと〝幸せ〟だよね)

1/4
前へ
/69ページ
次へ

⑨(これってきっと〝幸せ〟だよね)

 目が覚めた瞬間、『あ、これ熱がある』と思った。  熱を内側に閉じ込めているようなダルい身体に、勝手に潤む瞳。上半身をなんとか起き上がらせれば関節が軋むように痛んだ。 「風邪とか、久しぶりかも」  はは、と弱弱しく笑いながら床に足をついて体温計を探す。あまり使わないそれだけれど、一人暮らしを始める時に薬箱の中に入れておいた気がする。  よろける身体をなんとか倒れないようにし、浅い呼吸を繰り返す。そうしてようやく見つけた体温計で計ってみれば、三十八という数字が表示されまた短く笑った。 「会社は無理だなぁ」  高めの体温はもしかしたらインフルエンザかもしれないと思ったけれど、別段流行もしていないため、これは今までずっと気を張っていたのを緩めたからだと沙菜は思った。  今まで上手くいっていなかった仕事にようやく成果が出て、まだ自身の実力を周りが認めてくれたわけではないけれど、それでも上司はちゃんと見てくれている。そしてその彼は手を伸ばせばこの手を掴んでくれると分かったから、頼ってはいけないと思っていてもどこかでホッとしたのだろう。  今日は外回りの予定はない。丁度良いと言ったら悪いけれど、熱が出たのは正直今日で良かった。  取り敢えず今は市販の風邪薬を飲んで下がる様子がなければ早めに病院に行こう。インフルエンザなら中途半端な状態で治して出社したら周りに伝染してしまう。 「そしたら凛空にも連絡しとかないと」  今日来るとの連絡は来ていない――ついでに迎えに来なかった謝罪もないけれど、もしかしたらまた突然来るかもしれない。こんな状態で相手をするのは無理だし、彼にも伝染してしまったら申し訳ない。  沙菜はベッドにもぐりながらLINEを開き、『おはよう。風邪引いちゃったから家に来ない方がいいかも』と短く送った。『かも』にしているあたり、心のどこかでこの高熱の中ひとりでいる心細さがあるのかもしれない。  メッセージにはすぐ既読が付き、『りょー』と返って来る。 『じゃあそっち行かねぇから、治ったらまた連絡しろよ』 『うん。分かった』  返したそれにもすぐ既読が付き、そのまま何も返ってこなくなり会話終了。  看病しに来いとは言わない。そんなことを凛空がしてくれるなんて思ってはいなかったけれど、『お大事に』の一言くらいくれてもいいではないか。 「そこまで気が回る人じゃないよね、そうだよね」  熱い息を吐き出し、画面をタップする。  開いた上司の名前をしばらく見つめ、今度は番号をタップして耳にあてる。  そういえば時間を気にしないで掛けてしまったけれど大丈夫だろうか。今更不安になったけれど、短いコールで『もしもし』と上司である皇は出た。 「あっ、おはようございます。綾辻です」  迎えに来て欲しいとの電話はプライベートだったが、今のこれは仕事だ。二人きりの時と同じだけれどいつもと違うやり取りに沙菜は何だか変に緊張してしまい、敬語で上司にお伺いを立てた。 「大変申し訳ありませんが、あの、朝から体調を崩しておりまして、お休みをいただけませんでしょうか?」  周りに人がいるならばまだしも、自分と彼しかいない電話で畏まっていることが少しだけ可笑しい。これが正しい形なのに。  だがそんな沙菜とは違い、皇はいつもと変わらないそれで返してきた。きっと驚きもあったのだろう。 『えっ、先輩大丈夫ですか? もしかして雨に打たれたから』 「いやいや、そんな濡れなかったし、帰ったらすぐシャワー浴びたからそれは関係ないと思うよ。大丈夫」  それにこちらもいつものくだけた口調に戻しつつも、仕事の話ではきちんと彼を上司として話す。 「えっと、今日は急ぎの仕事はないので大丈夫だと思いますが、何かありましたらご連絡ください。休んでしまってすみません」 『そんなのいいですよ』  だがそれは〝そんなの〟で切り捨てられる。 『熱は? 先輩の家の近くに病院ってあったっけ……ご飯は? 食べられてます? 喉が痛いとか、吐き気とか』  心配してくれる皇に沙菜は口元を緩めて、彼を落ち着かせるように「大丈夫だよ」と言う。 「熱は意外と高くて、市販の薬を飲んどこうと思うんだけど、下がりそうもなかったら病院行ってくるよ。ご飯は薬の為に何か適当につまむかな。ダルいし関節が痛くてあんま動きたくないし」 『それ、大丈夫って言わないですよね』 「皇君が慌てなくても大丈夫ってこと」 『先輩ぶってる』 「そういうわけじゃないけど」  不満げな皇に笑ってしまうけれど、熱がある身体はそれも辛くて話を切り上げた。 「とにかく、今日はお休みします」 『分かりました。お大事になさってください』 「ありがとうございます」  そのまま『では失礼します』と切ろうとしたけれど、皇が『先輩』と呼んだ。 「ん?」 『なんかあったらいつでもいいから、連絡ください』 「……うん、ありがとう」  スマホを持っていない方の手が布団を握る。 「お仕事、頑張ってね。そしたら、失礼します」  目の前にいるわけではないのに、少しだけ頭を下げる。そしてスマホを耳から外して通話を切った。  しばらく口元は弧を描いていたが、ふとLINEのアイコンが座っている画面を見つめ、数回瞬きをする。 (比べちゃいけないけど)  正直、この差は大きい。 (いやいや、これ以上考えたらむなしい気持ちになっちゃう)  沙菜は画面を消し、ベッドに落とす。 「薬飲まないと。家に何かあったかなぁ」  痛む身体を再び動かしてキッチンへ行く。  比べたらいけない。だからだろうか。凛空の存在は心の中にどこにもいなくて、変わりに熱で潤んだ瞳の向こうに電話越しに心配した元後輩の焦った顔が見える気がして、早く元気にならなくちゃと冷蔵庫を開けた。 ――――ピピピピ。  音がして脇に挟んでいた体温計を取り出す。小さな画面には七度五分と表示されていて、「ふー」と力を抜いた。  朝に飲んだ市販の薬でも熱は下がるようだ。これでインフルエンザである可能性はほぼなくなった。  良かったと思いつつも、依然と身体は痛いしダルい。風邪で休みとはいえ、仕事が休めたことを嬉しく思うけれど、正直それを満喫出来るだけの体力も気力もない。  テレビを見るのも正直億劫で、ただひたすら体力をこれ以上奪われないように眠り続けていた。  目が覚めた今は十二時五分。薬が切れたらまた熱が高くなるだろうから今のうちに適当に何か食べて、また薬を飲んだ方がいい。  病院に行こうと思いつつも、この重たい身体を引きずって行くのは辛い。取り敢えず市販の薬で熱は下がるので、明日の朝になっても高熱ならばタクシーを呼んで病院に行こう。 (あ、でもそしたら会社を二日も休んじゃうか)  ならばもう今日タクシーを使ってしまった方がいいかもしれない。 「んあー、どうしよう」  分かっていても動きたくない時はどうしてもあるもので、今はただ休んでいたい。 「病院に行けば一発で治る絶対的な薬があるなら行くけど……」  そんな物ありはしないと分かっていても小さく零して溜息をつくと――ピンポン、と来客を告げる音が響いた。 「……留守でーす」  宅急便か何かだろうか。普段この時間はいないし、今はパジャマだ。それ以上に動きたくない為、沙菜は布団を頭から被って居留守を決め込む。  もう一度くらいチャイムが響くだろうと思ったけれど、それ以上なんの反応もない。もしかして新聞の勧誘とかだったのかもしれない。  何にせよ来客がいなくなったのなら良かったと息をつけば、今度はスマホが音を鳴らした。 「うわっ、なに?」  ホッとしていたところのそれに驚き、スマホの画面を覗き込む。そこにはLINEのメッセージが表示されていて、 『お見舞いに来ました』  の文字が。  名前は『皇 慧斗』だ。 「えっ、えっ!?」  沙菜は被っていた布団を手で放り投げるように退かし、飛び起きる。 「待って待って待って待って」  ダルく痛む身体を気にすることなく上のパジャマだけを適当なスウェットに変え、バタバタと音を立てながら玄関へ行く。そして勢いよく扉を開けば、そこには皇が立っていた。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1535人が本棚に入れています
本棚に追加