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起きたのは「先輩」と囁くように呼ばれたからだ。
いつの間に瞼を上げたのか分からないけれど、ぼんやりと見つめている先には皇の顔があった。
「すめ、らぎ、くん?」
「先輩、大丈夫ですか?」
「ん……えっと、私?」
数回瞬きをして、真っ白な状態の思考をクリアにしようとするも、今がどういう状況だったが全然思い出せない。けれどふんわりと香るいい匂いに、気持ちが焦りを覚えることは無かった。
「すみません。気持ちよさそうに寝ていましたけど、薬も飲まないといけないので起こしました」
その言葉に、そういえば私熱を出していたんだと思い出す。そして皇がお見舞いに来てくれたことも。
「取り敢えず卵粥を作ってみたんですけど、食べられそうですか?」
彼の向こうにあるテーブルには小さなお皿に盛られた柔らかい色をした黄色の卵粥とスプーン。それからお茶も用意されていた。
「ごめん寝ちゃって。全部一人で用意させちゃったね」
やっと目覚めた沙菜は謝りながら身体を起こそうとすれば、皇はそれを手伝ってくれる。
「いやそれ当たり前ですから。寝ててくれないと困ります。俺見舞いに来たんですよ? 先輩がやったら意味ないじゃないですか」
「まぁ、そっか」
はは、と笑うけれど、我ながら弱弱しい。会社にいる時とは違って本当に嬉しくて笑っているのに。きっとまた熱が上がったのだろう。
「……ダルそうですね。俺、お盆持ってきます」
「大丈夫。テーブルで食べれるよ」
「でも」
「ね、手を、貸してくれる?」
身体を支えてから離れた手。それを求めて伸ばせば、すぐに握り返してくれた。
彼の体温がいつもどれくらいなのか沙菜は知らないけれど、今日は冷たく感じられて、熱冷シートよりも気持ちよかった。
「ありがとう」
微笑みながら立ち上がる。繋がった手を支えにして歩き、テーブルの前に座った。
「すごい、美味しそう……」
「豆腐とかも買ってきてましたが、先輩の炊飯器は速く炊ける機能があったんで、それで米炊いて卵粥にしてみました」
「料理も出来るんだね」
「レシピがあればですけど」
「十分だよ」
沙菜は「ありがと」と再度お礼を言ってから手を離し、スプーンを取る。そして手を合わせて「いただきます」と一礼した。
「一応味見したけど、無理しなくていいから」
「うん」
一口掬って、息を吹きかける。そして口に含めば、卵の甘い味とほんの少し、味噌の味が口に広がった。家庭の味付けなのかもしれない。
「美味しい」
沙菜はポツリと零す。
「すごく、優しい、味がする」
震える声。じわりと浮かんだ涙は抑えきれず、テーブルの上に雫を落とした。
自分の為だけに作ってくれた料理なんて、いつぶりだろう。優しくて、嬉しくて、だから何だか寂しさが浮き彫りになる。
凛空に甘えて今まで生きてきた筈なのに、どうしてこんなに温かさが久しぶりに感じるのだろう。
(我儘だね私)
足りなかったのかな。もっと甘えたかったのかな。浮気とかされないで、こうやって愛されたかったのかな。
「先輩っ? 身体とか辛いですかっ? これ残しても全然いいしっ!」
「ううん。違うの」
突然泣き出した沙菜に驚いた皇は慌てた様子でお茶も差し出し、ティッシュまで用意してくれる。きっと卵粥が不味くて泣き出したのかと思ったのかもしれない。
沙菜は首を横に振り、スプーンを握ったままの手の甲で涙を拭う。そしてまた掬ってそれを一口食べた。またじわりと涙が浮かび、零れてしまう。
「美味しいの」
ぽろぽろと落ちていく涙の止め方が分からない。人前で泣くのはいつぶりだろう。
「すごくね、美味しいんだよ」
「先輩……」
喉が引きつりそうになりながら、食べ続ける。その間ずっと涙を流し、時折唇についたそれがしょっぱかったけれど、それでも美味しくて胸が張り裂けそうだ。
それを黙ったまま皇はずっと見ていてくれた。
「ご馳走様でした」
元々量が少なかったため、すぐに食べ終わる。手を合わせてまた一礼すれば、用意してくれたティッシュを渡してくれる。「ありがとう」と受け取り、頬と目元を拭う。
呼吸を整えるようにティッシュで目元を押さえて深呼吸をすれば、頭の上に何かが触れた感触がして、それが彼の手だと気付いたけれど、沙菜はそれを払いのけることはせず、そのまま受け止める。
何も言わずに皇は優しく撫でてくれる。
泣いた理由には気付いたのだろうか。それともまだ自分の料理のせいだと思っているだろうか。だが賢い彼のことだから何となく察し、こうやって撫でてくれているのだろう。
「泣いたりして、ごめんなさい」
「いいんです」
その手も声も凛空とは違う。当たり前だけれど、きっとそこに込められている感情も全然違う。
「ずっと、頑張ってたんですから」
どこまでも温かくて深い愛情を感じることが出来る。
(ねぇ、どうしてそんなに私のことを好きでいてくれるの?)
先輩らしいところも全然なくて、むしろ仕事を押し付けられている格好悪い姿しか見せてなくて、それを手伝わせている頼りない迷惑な人間なのに。
彼にこんなに優しくしてもらえるような価値なんて私にない。
「それに」
マイナスなことを考えていれば、それを遮るように皇が続けた。
「無理して笑顔を作られるよりよっぽどいい。泣きたい時に泣いて、また俺の前で笑ってください。俺はね先輩」
とんとん、と頭を軽く叩かれる。
顔を上げれば、あの子供っぽい笑顔が視界に咲き乱れた。
「先輩の為なら、何だってしたい。これは全部俺のしたいことなんです」
「……好きだから?」
涙声で聞いてしまう。だが後悔するよりも前に皇は笑顔で頷いた。
「うん。そう。先輩が好きだから」
「…………」
「なんで? って顔してる」
クスクス笑いながら頬に触れてくる。今度は親指で撫でられ、沙菜は少しだけ目を細めた。
「聞きたい?」
「……いつか、教えて」
本当は聞きたい。どうしてこんなに優しくしてくれるのか。そんな価値がどこにあるのか教えて欲しい。けれどそれを聞いてガッカリするのも怖い。
我ながら怖がりだと思うけれど、自分は強い人間じゃないことを嫌というほど知っている。
「じゃあいつか聞いて」
「うん」
コツンと額がぶつかり合う。
互いに顔を動かせば唇が触れ合えるのに、皇はそうしようとはしない。沙菜に彼氏がいるからしないのか、それともしたいと思わないのか、きっと凛空だったら遠慮なく熱があってもしたかったらするだろう。
「熱、さっきよりも上がってるから薬飲んで寝てください」
額が離れる。そして手にお茶と薬を持たされた。
(紳士……? それとも淡泊なだけ?)
なんとなくじっと皇を見つめながら薬を飲めば、彼はこちらの思考を読んだのか呆れるように溜息をついて立ち上がる。そしてキッチンに向かい、途中で振り返りビシ! とこちらに指差し言った。
「我慢っ! してやってんですからね!」
「……ぷっ」
沙菜はそれに吹き出し、「あはは!」と笑った。
なんだ我慢してくれているのか。したくないわけじゃなかったことになぜか凄く安心してしまう。
皇は笑う沙菜に「ふん!」と今度こそキッチンに姿を消した。
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