1527人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ
安っぽくて古い電灯の光が暗い道を照らす。
白いそれは沙菜が住む家へと導くかのように点々と続いており、トボトボとその光によって生まれる影を見ながら歩く。
晩御飯をこれから食べる気にもならない。
今日契約を取り付けた相手への書類と報告書は作ったけれど、資料の手直しが終わっていないから、部屋でそれと睨めっこして赤ペンを入れつつ、適当なところでシャワーを浴びて寝ればいい。
人間に必要な平均睡眠時間よりも少ない時間しか寝ていない身体は錆び付き、会社の椅子と同じような音がする。力を入れて肩と首を回すと、視界の先に自宅のアパートが映った。
二階の左から三番目のそこが借りているところ。部屋は一つで、扉を開けばすぐ右側がキッチンだけれど、中はなかなかに綺麗で、水周りも意外と広い。
値段の割にいい部屋だと思い、借りてからベッドやランプ、小物などを揃えては模様替えをするのが楽しかったけれど、今となってはほとんど寝るためだけに帰る家となっている。もうカーテンを開けたのがいつだったかも覚えていない状態だ。
あの頃の自分はどこにいってしまったのかと内心悲しく笑いながら己の部屋に視線を向ければ、その閉まったままのカーテンの向こう側が明るかった。
「…………っ!」
まるで人のいるようなそれに、沙菜は目を見開き、走り出した。
疲れきっている身体に鞭打って急いで階段を駆け上がる。
そして扉の前まで来てドアノブを捻れば、朝は閉めておいた筈の鍵が開いていた。
「凛空っ!」
名前を呼びながら開けば、玄関から真っ直ぐ先、すぐ見える奥の部屋にビールを片手に座る凛空がいた。
こちらに気付いた彼、小山凛空(こやま りく) はゆっくりと身体を反らせながら首を回し、笑顔で沙菜を迎える。
「おかえりー、沙菜」
キラリと輝く明るい茶色に染まった髪の毛が、笑顔と同じくらい柔らかいことを知っている沙菜は「なんでなんで?」と慌てながら靴を脱ぎ捨てた。
「今日仕事が遅くまであるから来れないって言ってたよねっ」
バタバタと走る音はもしかしたら下の階の部屋に若干響いているかもしれない。だがそんなことを気にしている余裕もなく凛空の前で膝をつけば、彼は笑って持っていたビールの缶を小さなテーブルの上に置いた。
「んー、まぁ予定が変更になったから来ちゃった」
「連絡くれればよかったのに!」
「仕事の邪魔しちゃ悪いと思ったんだよ」
空いた手が伸び、沙菜の頭に触れる。
乱れた髪を梳くような動きが気持ちよくて目を細めれば「隈、出来てる」と相手も目を細めた。
「てかまたお前終電? ありえなくね?」
「えーっと、また急な仕事が入っちゃって、ははは」
乾いた笑いだと思いつつも癖になったそれをどうすることも出来ずにそう言えば、凛空は仕方が無いなというような溜息をついて頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「はい、今日もお疲れさん。よく頑張ったな」
「っ――――」
労いの言葉に目を見開き、涙の膜が張る。そのまま放っておけばきっと雫が流れ落ちてしまうだろう。沙菜は何度も瞬きをしてそれを散らした。
「凛空は晩御飯、食べたんだね」
明るさを努めて聞けば、相手は笑顔のまま「食った食った」と頷き、また軽く頭を叩く。
テーブルの上にはビールの他に空のプラスチックの弁当箱。きっとコンビニかどこかで買ったのだろう。他にも床には雑誌や酒のつまみの袋、すでに飲み終えているビールの缶も落ちていた。
(えっと、私の分は、ないよね)
いつものことだ。そういう気遣いは無いのは分かっている。それでも頭を撫でる手が嬉しくて、「じゃあ私もっ」と立ち上がろうとすれば、凛空の言葉が被さった。
「取り敢えずお前、風呂入ってくれば?」
何か食べようかなと言う前にそう提案され、安物のカーペットの上に置いてある両手が軽く拳を握る。
「え、」
夜も深いこの時間。彼氏と彼女の関係が部屋に二人きり。なのにシャワーを浴びた後に片方が食事をするなんてことはあるのだろうか。
「あの、その……」
「ん?」
きっと彼は自分が食事を取ったか取っていないかは気にしていないに違いない。仕事を持って帰ってきていることも職場が違う彼にとってはどうでもいいことだ。
「どーしたー?」
けれど首を傾げながら額に触れる唇は柔らかくて、またヒビの入りそうだったコップは少し揺れただけで納まり、沙菜は頭に乗っている手に自分の手を重ねて「分かった」と頷いた。
「すぐ入ってくる」
「おー、待ってっから」
重なっている手が普通に退かされる。
頭からも手のひらからも彼の熱が消えるのを感じながら「うん」と笑い、立ち上がった。タオルも着替えも全て脱衣所に準備してある。
またビールを呑み始めた彼を背に沙菜はそのまますぐ傍の脱衣所に入り、後ろ手で扉を閉めた。
ゴンと音がしたのは自分がその扉に頭を預けたからだと気付いたのは、仕事のカバンも一緒に持ってきてしまったと気付いた時と一緒で、しばらく経った後だ。
「…………」
そのまま何も考えずに服を脱ぎ捨て、シャワーを頭から被る。
髪が濡れ、足元にぽたぽたと垂れるお湯は全て本当にただのお湯なのか、それすらも考えたくなくて、ただただ身体を磨く。
空腹感はない。シャワーの音で腹の虫の音も聞こえない。カバンに入れっぱなしのスマホが振動していたことも、浴室のドア一枚向こうなのだから、尚更気付かなかった。
「おまたせー」
髪の毛を乾かすのもそこそこに部屋へ戻れば、もうそこはベッド近くのランプの小さな灯りだけになっていて、伸ばされた腕も、その姿もただぼんやりとしか視界に映らない。
(まぁ、もういいや)
考えたら負けとはきっとこういうこと。
沙菜は暗闇の中一粒だけ、これは涙だと理解しながら零し、あとはその熱にただただ甘えた。
最初のコメントを投稿しよう!