①『お久しぶりです。また缶コーヒーを飲みましょう』

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 目が覚めたのは、遠くからアラームが聞こえたからだ。 「ん、んんん……」  いつも置いてあるベッドの端に手を伸ばし探るも、ぶつかるものはない。寝不足な頭で「あれぇ」と呟けば、隣から「うっせぇ」という声が聞こえ、ぱっと目を見開いた。 「あ、ごめんっ」  慌てて上半身を起こし、ベッドを見る。だがやはりそこにスマホはなかった。 (えっと、どこで鳴ってるんだろう?)  キョロキョロ辺りを見回していると、ふと昨晩脱衣所にカバンも持って行ってしまっていたことを思い出し、小走りする。覗き込めばやはりそこにカバンがあった。  乱暴に手を突っ込み、ピピピピ、ピピピピと響く安いアラーム音を止める。沙菜はホッと息を吐いた。  たとえサイレントやバイブでもスマホのアラームは毎日鳴るように設定しておいてある。昨晩は今日のことなど考えずに疲れて眠ってしまったけれど、その設定のおかげで遅刻は間逃れた――凛空の機嫌を損ねてしまったかもしれないけれど。  脱衣所から顔だけ出し、チラリとベッドを覗く。先程文句を言った彼はまた夢の中のようで沙菜は再度息を吐いた。  けれど今日は早く出社して頼まれた資料を手直ししなければならなかったのに、いつも通りの時間に起きてしまったため、先に終わらせておくのは無理そうだ。  また嫌味を言われると思うと、否、思わずとも出社なんかせずまたベッドに戻りたいけれど、そうも言っていられない。  ここでくじけたら、もっとひどい明日が待っていることになる。  沙菜は先程とは違う種類の息を吐き出しながら、アラームを止めて戻った待ち受け画面をなんとなく覗き込む。するとそこにはLINEの通知マークがあった。 (あ、全然気付かなかった)  会社関係だったらヤバイと思い、慌ててタップする。 「…………」  溜息が止まった。  その名前を見るのは久しぶりで、けれどふとした時に思い出されるその声と姿。 ――――皇 慧斗(すめらぎ けいと)  二年前に異動してしまった後輩からのLINE。 (なん、だろう)  彼からの連絡は全て無視し、それから空白の一年間。今になって一体なにを?  いや、他愛の無いただ暇つぶしに送ったものかもしれない。もしかしたらお元気にしていますか? くらいは送ってくるかも。  変に考えすぎるなと沙菜は首を横に振る。それでも昨日の帰りに彼のことを思い出していたため、妙に意識してしまう。  このまま見てみぬフリという選択肢もあるけれど、それを選んだらきっと内容が気になって今日一日仕事にならない。  ぐっと顎を引き、強い脈を感じながら緊張した面持ちでそれをタップし、開く。  するとそこには短く一文だけ。 『お久しぶりです。また缶コーヒーを飲みましょう』  と、書かれていた。 「…………」  数回瞬きをし、眺める。  もう一度読んでみても短いそれはすぐに読めるし、何度読んでも変化は無い。 「……ん?」  思わず顔を顰めて画面に近付けた。  なんだ? これは。  時間を見ればもう夜中もいい時間で、もう自分も家に帰っていた頃だ。そんな時間にこの一文? どういうことなのかさっぱりだ。もしかしたら送る相手を間違えたのかもしれない。 「人騒がせな……」  沙菜は身体の力を抜き、息を吐く。  でもよく考えてみれば、ずっと連絡を無視されていた相手に一年越しに元気ですか? なんて聞かないだろう普通。やはり昨日の今日で考えすぎていたらしい。  画面をタップして前の画面に戻り、そのトークを長く押す。そして表示された削除ボタンを何の躊躇いもなく押してアプリを閉じた。  送る相手を間違えてると教えてあげた方がいいかとも一瞬考えたけれど、トーク画面を見れば誰に送ったかすぐ確認できるからいいだろう。ずっと無視していたのに今になってそんな親切を働かせるのもおかしい。 「っと、やばいやばい!」  待ち受け画面に表示されている時間を見た沙菜は慌てて仕事へ行く準備をする。  凛空の為に朝ご飯を用意してあげたかったけれど、昨日は来ないと思っていたから大した食材も無ければ時間もない。そういえば彼は今日仕事はあるのだろうか。  起こした方がいいのか悪いのかしばらく悩むも、二人で遅刻したら大変だ。  沙菜はベッドの奥で眠っている凛空に小さく声を掛けた。 「起こしてごめん。私行って来るから、凛空も仕事なら無理しないようにね。申し訳ないんだけど、朝ご飯もどこかで食べてね」 「ん~」  もぞもぞと彼は身体を動かし、腕を伸ばす。その手は沙菜の頭に乗っかった。 「いってらっさーい」 「っ、行ってきます!」  嬉しさで口角が上がり、笑顔で元気よく返す。そしてそのまま家を飛び出した。  帰り道とは違い、明るい道をいつもよりも軽い足音を立てて進んでいく。我ながら単純だと思いつつも、やはり見送ってくれる相手がいるというのは嬉しいものだ。  今日も一日乗り越えよう! 沙菜は心の中でそう大きく叫んだ。  けれど、人はそうそう強くなれる生き物ではない。 「沙菜ちゃ~ん、資料できた?」 「あ、ごめん。まだなの」 「あーもー、おっそーい。なにしてんの?」  出社し社内を掃除し終えた沙菜が給湯室で一息ついていると、出勤してきた恵梨佳が沙菜にそう声を掛けて来た。 「えと、ごめんね」  表情を歪めて溜息をつく彼女に、背中に汗が垂れてくる。  悪いのは自分ではないと思いつつも、それらに抱いてしまう罪悪感に胸が苦しい。  昨晩あの後寝ちゃわないで仕事をしていれば。スマホのアラーム時間を変えていれば――根本的な問題はそこじゃないと分かっていても口から出てくるのは謝罪だ。  そんな沙菜に恵梨佳は上から見下ろすように言った。 「これだから沙菜ちゃんは正社員になれないんだよ~」  笑みを作ったままピクリと肩が揺れる。 「まぁいいや。今日中に作ってよ? 絶対」 「……うん。頑張るね」  元気いっぱいだった朝の自分よ、戻って来い。  溜息が出そうなのを必死に堪えながら席に戻り、手早く資料を広げる。先日買ったばかりなのにもう半分近くまで減ったペンを走らせていれば、朝礼の時間となり、腰を上げた。  視線を課長の席へと向けると、いつもこの時間にはいるその姿が無かった。 「あれ? 課長は?」  他の同僚も気付いたようで辺りを見回すも、どこにもいない。だが休みの連絡は誰も受け取っていないようだ。 「誰か休憩室見て来いよ」という声が飛び、沙菜は「あ、はい」と頷こうとしたところで、この部屋の出入り口の扉が開いた。 「あ、かちょ……」  皆の視線がそちらへ向く。一瞬にして空気が変わった。 「え……」  そう声を出したのは誰でもない、扉に一番近い席に座っている沙菜の声だった。  コツン、コツンと響く足音。だがそれは一人分ではない。  いつものうるさい足音と、もう一つ。どこか控えめな音。だがそれは聞き覚えがある。  全員に見守られながら室内の奥、課長の席の隣に二人は立った。 「えー、突然だが、今回私は異動することとなった」  朝の挨拶もなく告げられる言葉。普段も決して機嫌が良いとはいえない表情をしているが、今日は今まで見たこともないほど表情を歪ませていた。 「それに代わって彼が、ここの課長を務める」  驚きにざわつくこともなく、社内は静かなまま。いや、静かというわけではない。ここにいる皆が理解出来ていないのだ。 「覚えていない人もいると思うが、約二年前にうちから本社に異動になった皇君だ。引継ぎなどがあるため、私もしばらくここに顔は出すが、報告は全てもう彼にするように」  こんなこと有り得ないだろう。だって彼はここにいる誰よりも年下で、一番の後輩で、あいつはコネを使って栄転したと男性陣に恨まれた――――  コツと一歩。前に出るのはその男。 「皆さんお久しぶりです。皇 慧斗です。また一緒に仕事ができて嬉しいです」  課長、否、元課長とは対照的な爽やかな笑み。今度こそ本当の意味で社内は静寂に包まれた。冷えた空気に気付いているだろうに、彼の笑みは崩れない。 (どういうことなの……)  それぞれがそれぞれに色々な思いを抱いているに違いない。沙菜もその中の一人で、混乱に混乱を極めていた。 (どうして、また皇君が、というか)  だがきっと全員が同じものに辿り着く。 「まだまだ不勉強で、皆さんから学ばせていただきながらだと思いますが、課長に就任したからには、頼られる存在になれればと思っていますので、よろしくお願いいたします」 (彼がこれから私たちの上司ってこと!?)  あの頃は深々と下げていた頭が、若干浅くなったことに気付いたのはきっと誰もいない。
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