②『まだ秘密』

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②『まだ秘密』

『初めまして、皇 慧斗と申します。少しでも早く仕事が覚えられるよう頑張りますので、宜しくお願いします』  二年前。  その年の新社会人としての新入社員は二人。そのうちの一人が彼、皇だった。  無難な挨拶をし頭を下げる。黒い髪に黒い瞳。大学でも遊んだことがなさそうな真面目君。それが沙菜の第一印象で、回りも特に気にしたことなく形どおりの拍手をする。  けれどまさかこの会社に勤めてから二年目でその新人の指導を任されるとは思わなかった。 『ブラックだね』  高校からの親友、志伊那 穂稀(しいな ほまれ)とお茶をし、近況報告をすればその一言。それにはごもっともと頷くしかない。  元々沙菜は大学卒業後、別の会社で働いていたが、皆がその名前を知っている現在の会社に転職した。  バリバリのキャリアウーマンになりたいわけではないけれど、働くならば少しでも名前のあるところに勤めてみたいと思っているところに舞い込んできた求人。飛び込んでみたのはその場の勢いというやつだ。  子会社といえど大企業。中途採用の自分は正社にはなれず契約社員だったけれど、それでも実力さえ認められれば正社員になることも出来るだろう。  今はくじけず仕事も新人教育もどちらも頑張るしかないと自分を慰め励ました。  だが予想外なことに、新入社員の皇はとにかく優秀だった。  一度仕事を教えれば同じことを聞くようなことはなく、むしろ教える必要があるのかとさえ思えた。それでも一年目の新社会人だからと、沙菜は彼に丁寧に仕事を教えていった。  だが沙菜の仕事はそれだけではない。新人教育を任されたといえど仕事が減るわけではないのだ。それに加え恵梨佳が遠慮なく仕事を押し付けてくるのだから、正直沙菜は大変だった。 (やばい、今日は終電間に合わないかも)  明日会議で使う資料を作るのを忘れていた日。帰る間際に気付き、必死にパソコンと向き合っていた。  多少作成に時間は掛かるものの、それでも慣れた手つきで作れば早く終わる。意外と時間が掛かるのはそれを順にまとめ、ホチキスで留めたりする方だ。 (なんで忘れていたのよ私ぃ!)  過去の自分を恨みながらもキーボードを強く叩き、素早くマウスを動かしていれば。 『お疲れ様です、先輩』  聞こえた声に手を止め、振り返る。するとそこには先程、『もう帰っても大丈夫だよ』と言って離れた皇の姿。 『お疲れ様ですって、どうしたの? 忘れ物?』 『いえ、一服してから帰ろうと思って』  持ち上げてみせたのは缶コーヒー。  会社が終わればすぐに帰るような彼に見えたが、会社で一服とは。意外と肝が据わっているのかもしれない。  沙菜は『そっかそっか』と笑い、『気をつけて帰ってね』と画面に向き直りながら言った。彼と話す時間すら惜しい。再び仕事に取り掛かる。 『手伝いましょうか?』 『あー、いや、大丈夫だよ』  新人に手伝わせるなんて、仕事が増えるようなものだ。実際これを忘れたのだって―――― 『俺のせいですよね。今必死にやっているのって』 『…………』  手を止めなかったのは奇跡に近い。  けれどまるで自分の心を見透かされたような言葉に、心臓が口から出てくるかと思った。 『そ、そんなことないよ~』  代わりになんとか無難な台詞を吐き出すも、彼は『いえ、俺のせいです』と譲らない。 『先輩、凄く俺に気を使ってくれるから自分の時間を全然取ってないじゃないですか。今日残業しているのはそれのツケでしょう?』 『いや、えっと……』 『流石に資料作りの手伝いは出来ないので、印刷したそれをまとめるのくらいなら手伝えます』 (さ、さすが優秀)  作成だけではなく、その後のことまで考えているなんて本当に彼は新人だろうか。だがこちらだって先輩だからという意地がある。  教育指導をしていたからなんて言い訳だ。時間が取れていなかったのは本当だけれど、忘れたのは自分の責任。 『ありがとう。でも、』  大丈夫だから、と続けようとしたがその前に皇が『じゃあ出来上がったらすぐ印刷かけてください』と言ってしまう。 『ちょ、ちょ、ちょっと待って! そういうありがとうじゃなくて!』 『お願いします』 『皇君!』  こちらの言葉に聞く耳持たず、そのまま部屋を出てしまう。 『え、えー……』  閉まった扉を見つめたまま固まるも、もう仕方ない。手伝ってくれるのなら手伝わせよう。そう切り替えて沙菜は猛スピードで資料に取り掛かった。 『よし』  ところどころ説明を省いたが、口頭で言えばいいやと明日の自分に委ね、印刷をかける。  するとまるで外でプリンターの音が聞こえるのを待っていたかのようなタイミングで皇が戻ってきた。 (あのまま帰ってくれてもよかったんだけど……)  内心苦笑していれば、『どうぞ』と渡される。 『あ、ありがとう』  それは会社に設置してある自動販売機全てになぜか入っている缶コーヒー。ブラックではなく微糖なのは疲れた身体に糖分を与えるためだろうか。  どちらにしても沙菜はブラックでも甘いコーヒーでも、どちらも飲めるので問題ないのだが。 『じゃあまとめましょうか』  そのままプリンターの方へ歩いて行く皇に、沙菜も慌ててその缶コーヒーをデスクに置いてついて行く。  彼は手短に必要なことだけ聞いて作業に入った。その手際のよさは本当に先輩顔負けで、沙菜は情けなさと申し訳なさでいっぱいになり、資料をまとめながら『皇君まで残業させてごめんね』と謝った。 『先輩のくせに、私の仕事手伝わせるとか、本当に情けない』 『俺に時間を割いてくれているんですから、俺が手伝うのは当たり前じゃないですか』 『でもこれは私の仕事だし』 『一人でこなせばいいってものでもないでしょう』  バチン、とホチキスの音が響く。 『全部を押し付けるのはどうかと思いますけど、でも誰かの手を借りるのはいいと思います』  もしや恵梨佳に仕事を押し付けられていることも知られているのだろうかとドキリとするも、そういうことではないようで、皇はまたホチキスの音を立てながら呟くように聞いてきた。 『これって、甘い考えですかね。仕事に夢、見すぎですか?』 『……そんことないと思うよ』  トントン、と資料をデスクの上で整える。  なんとなく心が温かい。 『仕事ってさ、その人その人の責任があると思う。でも、会社には沢山の人がいて、その人ひとりが会社を動かしているわけじゃないんだよね。それぞれが責任持って仕事をして、またその仕事が別の人の仕事になったりして。縦の繋がりと横の繋がりもあって。だから、一人でもその責任を放棄したり、置いていかれたりしたら会社として成り立たないんじゃないかな』  なら今の自分の立ち居位置は?  契約社員なのに新人の教育まで任されて、しかも同期とはいえ正社員の人に仕事を押し付けられている。残業をすることもしばしばだ。  責任という言葉を掲げながらも無責任が転がる無法地帯。  けれどそれをいま彼に教える必要はないと思った。  大人だから自由なのだと勘違いする子供と同じなのかもしれない。いつか現実を見なければいけない。綺麗ごとばかりじゃないことに気付いて、絶望することもあるだろう。でも夢くらい抱いていてもいいでしょう? 『助け合いながら仕事が出来たら、一番いいよね』 (うん。そうだった)  自分だって彼ほど真っ直ぐではないにしても、多少なりとも希望と夢を抱いてこの会社に入ったんだった。 『なら、俺が先輩の手伝いをするのも変じゃないですね』  まさかそう返されるとは思わず、整えた資料を渡しながら瞬きをする。  こちらが彼を励ましている気持ちでいたが、まさか励まされていたのは私の方? (……この新人、あなどれない)  少し睨むような目になってしまったのに気付いたのか、皇は小さく笑いながら受け取り『これで最後です』と留めた。 『お疲れ様でした』  ちらりと時間を確認すれば終電までまだ余裕がある。  彼がいるからと猛スピードで資料を作成したのと、それを二人がかりでまとめたため、随分と早く終わったようだ。 『ありがとうございました』  先程のこともあり、少し悔しい気持ちでお礼を言う。もう先輩ぶるのは無理そうだ。指導をやめるつもりはないけれど。
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