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完成したそれを袋に詰めて、デスクの上に置いておく。
そこで貰った缶コーヒーが目に入って、そういえば一服と言っていた彼が飲んでいたのも缶コーヒーだったなと思い、なんとなく聞いてみた。
『皇君、コーヒー好きなの?』
『あー、えっと、まぁ』
いつもハッキリ物事を言う彼にしたら珍しく歯切れの悪い返事に、沙菜は缶コーヒーを持って振り返り彼を見る。するとどこか恥ずかしそうに頬を人差し指で掻いていた。
『……なんか、スーツ着て会社で缶コーヒーってよくあるじゃないですか』
『……憧れてたとか?』
『いや、そういうわけじゃないですけど、でもなんていうか、なんかこう……あるじゃないですか』
優秀な彼が上手く説明出来ていない。
分かる。そういうのってある。これが出来たら社会人みたいな。でもそれは憧れに近い感情で。
笑いそうになるのを必死に我慢しながら、沙菜は少し意地悪な質問をしてみた。
『さっき飲んでたの、微糖だったよね?』
『ブラックは、その』
皇は顔を背ける。
『口に合わないんです』
『…………』
飲めないとは言わないそれも妙に子供っぽくて、ついに沙菜は吹き出した。
『あっははははっ、そうだよね、苦いもんね!』
『缶コーヒーなら何でもいいんですよ!』
『そっかそっかー。そしたらこれはやったことあるかい後輩君』
沙菜は笑いながら目元を拭い、提案してみる。
どうやらまだ自分は先輩ぶれるらしい。
『仕事終わりに今日もよく働いたわーって先輩とジョッキをぶつけ合うのとか』
ブラックが苦手なら酒も苦手だろうか。でも憧れにそんなの関係ない。それを証拠にそう言った瞬間、彼の顔が輝いたのを見て、沙菜はまた爆笑してしまった。
それから皇はしばしば沙菜の仕事を手伝ってくれるようになった。
こちらから何かを言うことは無かったけれど、きっと沙菜が仕事を押し付けられたり、変に嫌味を言われていることに気付いたのだろう。まるでそれらを阻止するかのように傍にいてくれたり、『手伝える仕事ありませんか?』と聞いてくれた。
彼が思っていたような会社ではなかっただろうに、それでも嘆くことも辞めることもなく、皇は入社してきた頃と同じように働く。
変わったといえば、二人でよく呑みに行くようになったことだろうか。
皇は他の同僚とも呑みに行くことがあるようだが、こちらと呑むことの方が多い気がした。
見た目は悪くないけれど、他の女子社員は一番年下の新人にはあまり興味もないようで、彼には〝優秀なガリ勉タイプ〟というレッテルが貼られていた。
話してみたら随分子供っぽいよ、ということをわざわざ教えることはない。
一緒に仕事をして、一緒に呑んで、先輩後輩としていい関係を築けていると思ったし、四つ離れた年下といえど、男女関係を考えることもあった。
それくらい彼は傍にいてくれたし、助けてくれたし、笑いかけてくれた。
自分には心を開いてくれていると思っていたのだ。
あの時までは。
『俺、本社に異動になりました』
ちょっと話したいことがあると言われた時、ついに来たと思った自分が恥ずかしい。本当にバカみたいだ。
たかが半年弱。されど半年弱。短いけれど決して上辺だけの付き合いだったわけじゃなかった。
でも男と女として付き合っていたわけでもないし、ただの会社仲間。一緒に仕事をしただけ。きっと向こうからしたら最初の一歩が沙菜だった、それだけだろう。
けれどこちらはそうじゃなかった。彼と一緒にいると自分も昔みたいな真っ直ぐな気持ちになれたような気がして嬉しかったし楽しかった。これからも一緒に仕事をするとばかり思っていた。
『えっと……』
ショックが隠せず、沙菜は視線を泳がせる。
ここで彼も悲しんでくれたらまた違っただろう。もっと一緒に仕事がしたかったとか、本社に異動になりますがこれからも繋がっていてもらえますかとか、これからのことを何でもいいから。
けれど皇はどこか清々しい笑みを浮かべて、
『お世話になりました』
とお礼を告げた。
その瞬間、コトンと音を立てて心の中にガラスで出来たコップが置かれた。
これは壁みたいなもの。感情を制御する為の、本当の心が傷つかないようにするためのコップ。
(あぁ、私だけだったんだ)
涙すら出ないのに、コップの中にはトポトポと音を立てて水が注がれていく。溢れて零れそうになったけれど、沙菜はそれを無理やり飲み干して空にした。
いい。もういい。別にいい。知らない。もう知らない。
『そっか。分かった』
そのまま沙菜は皇を置いて歩き出した。
勝手に期待して、勝手に裏切られた。分かってる。これは全部私の感情で、彼は関係ない。
もともとそんなつもりありませんでしたよ? と言われればそれまでのことなのだから。
それでも期待するなっていう方が難しい話で、互いの意識の相違? そんなのクソ食らえ。
連絡が来ても出るなんてことはしない。
そんな自ら傷つきになんて行きたくないし、そんな勇気もない。
悲しくて、自分の愚かさを笑うことすら出来ないくらいとにかく悲しくて、それはもう触れたくない思い出となった。
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